繊維街道/私の道中記 辻洋装店社長  辻 庸介 氏 (2)

2016年07月12日(Tue曜日)

器以上のことはできない

  辻は1942年、東京・人形町に生まれた。時は第2次大戦の真っ只中。ほどなく父親の米吉は戦争で外地へ。母親の春子がジャガイモやニンジンなどの卸販売で生計を立てていた。

 ところが、空襲で辺りは焼け野原となり、物価統制もあって母親の商売もできなくなってしまいました。そこで、東京・中野区に疎開し、借屋を借りて始めたのが洋服屋だったわけです。戦後間もない1947年のことでした。

 6畳1間で始めたオーダー服作り。洋裁学校で勉強した程度の母は、完成品の洋服をほどきながら、見よう見まねで研究に努めたそうです。食うために必死でした。私はといえば、子供の頃からそろばんが得意で、小・中学校時代はよく大会で入賞したものです。おかげで時給の高い税務署でアルバイトもできました。その流れで商業高校に入学し、一般企業への推薦をもらうなど、そろばんができたら食べるのには困らない時代でした。

 母親からも「好きなことをやっていい」と言われていたので、当初は稼業を継ぐつもりはなかったのですが、母親を見ていると何となく、「(家業を)継いでほしい」という気持ちが伝わってきました。

  辻は将来的に家業を継ぐべく、文化服装学院の師範科へ進み1963年に卒業。後藤洋裁所で修業に励むが、修業時代は約2年と短かった。これまで一家を支えてきた母親が入院したのだ。

 実家に戻ると同時に、朝から晩まで休日なしでミシンを踏む毎日が続きました。

 夜中1、2時は当たり前、時には朝日が昇るまで作業していました。そのころは2階建ての仕事場兼自宅でした。

 作業場も15畳ほどに広がり社員も6、7人いましたが、私が戻ると次から次へと社員が辞めてしまう。今思い返せば、専門学校での勉強や修行先での実務経験を持つ私が生意気だったのでしょう。

 また、戦争から戻った父親は仕事場兼自宅の8畳一間で洋裁の私塾を営んでいましたが、私が実家に戻った1965年の1、2年後、不況を理由にやめ、社長として洋服作りを手伝っていました。

 当時は繊維も基幹産業でしたから、仕事には困りません。社員が辞めれば新たに雇い、人手に限界が来れば増員するという状況を、20代後半まで繰り返していました。しかしある時、自分の器の小ささにあきれ、「器以上のことはできない」と猛省しました。

  30歳になってからの辻は、経営にも目を向け、様々な本を読みあさるようになった。時代は高度経済成長期。70年代になると「ピエール カルダン」など海外ブランドも登場し、既製服とオーダー服しかなかった日本にプレタポルテという高級既製服の概念が生まれ始めた。

(文中敬称略)