繊維街道/私の道中記 辻洋装店社長  辻 庸介 氏 (3)

2016年07月13日(Wed曜日)

誰もまねできないモノ作り

 スカートやパンツの縫製が多かった当社ですが、1972年から現在主力とする上着など婦人の高級既製服に着手しました。一方で世の中は、分業制の大量生産型モノ作りが主流となっていきました。

 時流に反するかのような当社のグループ制による高級品生産は、手間も要する上に覚えることも多い。手の込んだ縫製技術の習得に、社員からは「意味があるんですか」といった声も出ました。

 しかし、仮に大量生産型に切り替えても、当時従業員10人ほどの当社が100~200人規模の大会社に勝てる見込みはありません。そこで改めて「誰もまねできないモノ作りを追求する」と腹を決め、ミニマムロットが小さいものや他社が敬遠する手間がかかるものをコツコツと積み上げてきました。

 大量生産型のモノ作りや円安の進行に伴い、多くの縫製工場が地方や海外に新設・移転する中、同社は76年に構えた東京・中野区の本社で、高級婦人服の生産に磨きをかけていく。

 とは言え、大量生産型の工場に比べ利益率はそれほど高くありません。「地方へ行けばもっと大きい工場を作れるのに」という意見もありました。経理士からは「それだけ働いてこの程度の利益なら、アパートに建て替えた方がいいのでは」とも言われました。

 賃料収入の見込みは月80万~100万円ほど。一瞬迷いましたが、従業員とその家族がいます。何より賃料収入では働く面白みがない。このとき、対価だけでない働く価値を見出した気がしました。

 その後、創業者である母親の死という試練に見舞われる。このとき辻は49歳、バブル崩壊後の閉塞感漂うさなかだった。

 母の死は、本社近くに縫製の新拠点となるアトリエができて間もなくのことです。母親はアトリエの新設に反対でした。「昔から47~49歳は七難八苦といって難儀する」と、新しいことを始めるのに不安だったようです。バブル崩壊から主要取引先の経営も揺らぎ、売り上げが2、3割ダウンしてきた時期でもありました。

 ただ母親が亡くなる前日、現在も最大の取引先であるジュンアシダの役員から「うちとやってくれないか」と言ってもらえたのは救いでした。技術力を高めてきたことは無駄ではなかったと、少し気が晴れたのを覚えています。

(文中敬称略)