秋利美記雄のインドシナ見聞録(28)/「製鉄所よりも魚をとる」

2016年07月19日(火曜日) 午前11時50分

 4月下旬、北部の出張先で客先の出張者と晩御飯を食べながらテレビを見ていると、ベトナム中部の沿岸部の海岸に魚の死骸が大量に打ち上げられている様子が映し出された。同行者は真っ赤に染まる海の映像をちらっと見ながら「赤潮じゃないかな」とつぶやいていた。しかし、実際はそうではなかった。

 ベトナム中部ハティン省では台湾のフォルモサ・グループが製鉄所を建設していた。建設計画は総額約2兆円を投じ、東南アジア最大の製鉄所を目指すという一大プロジェクトである。魚の大量死の原因は当初からこの製鉄所の排水用パイプラインから流された汚水ではないかと疑われていたが、工場側は原因不明として同社の責任を認めていなかった。

 5月に入ると3週連続で、週末にはホーチミン市やハノイを中心にこのフォルモサへの抗議のデモが展開された。これは、環境問題への懸念もさることながら、当事者たる台湾企業側の対応の不手際によるところが大きかった。疑わしいとされていたフォルモサの関係者は、インターネット上に掲載されたインタビューで、地元社会は「魚やエビと、最先端の製鉄所のどちらを取るかを決める必要がある」と述べ、一方は犠牲にせざるを得ないと言い放った。これに反発して、デモに参加した人々は、「製鉄所よりも魚やエビをとる」「フォルモサは出ていけ」と明確な意思表示をしたのだった。

 マスコミの報道により、魚を中心に食に対する不安をかき立てる空気がベトナム全土で出来上がった。中部の漁業関係者の直接的なダメージはもちろんだが、全国の国民が魚は危ないと考えて口にしないようになったので、間接的な損害の大きさは計り知れない。

 諸外国の学者などの研究チームの2カ月近くにわたる調査の結果、6月末、フォルモサは同社の関連企業が十分に処理されないままの廃液を垂れ流したため事件が発生したことを最終的に認め、ベトナム政府と国民に正式に謝罪した。5億ドルの賠償金を払うとともに再発防止策を講じるなどの約束をして、製鉄所の建設プロジェクトは続行することになった。

 開発の裏で取り返しのつかない深刻な環境破壊が行われる事例は世界中で枚挙にいとまがないが、経済発展と環境保護の兼ね合いの問題を非常に分かりやすい、誰が問われても同じ回答でしかない形で問われたのはベトナムにとっては不幸中の幸いだったかもしれない。

あきとし・みきお 繊維製品輸入販売会社カラコロモ〈東京〉代表、ミラン・コンサルタント〈ホーチミン〉副会長