学 講演会より/綿花を巡る日印交流史/日本綿花協会 代表理事 山岡 健一 氏

2017年01月20日(Fri曜日) 午前11時23分

 2016年12月5~7日にインド・ムンバイで世界の綿花関係者が集まる「コットン・インディア2016―17」が開催され、日本綿花協会の山岡健一代表理事が講演した。その一部を紹介する。

 今日は「インドと日本の協力の歴史」についてお話ししようと思います。まず、現在の日本の綿花の状況について、過去と比較しながら簡単に話してみましょう。そして、両国間の綿花取引が非常に活発だった過去を振り返ろうと思います。

 2015~16綿花年度の日本の綿花輸入量は30万俵(1俵=480ポンド)でした。米国が40%のシェアを持つ最大のサプライヤーであり、ギリシャ、豪州、ブラジルが続きます。インドは1%のシェアしかありません。しかし、100年前はインドのシェアは70%でした。日本の全輸入量が200万俵、このうちインドからが140万俵占めていました。この比較は当時と現在の日印の綿花取引の関係をよく表しています。

 図表1は、1885年からの日本の綿花輸入量の推移を表しています。輸入量は過去25年間で減少しており、今日の輸入額は1990年比で10分の1です。日本は300万~350万俵を常に輸入し、ピーク時は400万俵近くを輸入していました。過去最高は1936年に記録した460万俵であり、そこにはインドからの210万俵が含まれています。その後、第2次世界大戦によって米国と連合国による輸出禁止措置により、綿花の輸入は急減しました。

 過去130年間の日本の紡績設備を見ると、戦前の1937年に1260万錘となり、戦後の1972年に1500万錘に達しています。紡績設備も戦時中の爆撃などによって1000万錘の設備が破壊され、200万錘にまで減少します。戦後、私たちは一から再出発したわけですが、皮肉なことに現在では国内の紡績設備は100万錘を下回っています。

 先進工業国において繊維製品や衣料品は、新興工業国からの輸入品との競争によって、常に最初に衰退する製造業です。それはまず英国で起こり、半世紀後には日本でも起こりました。紡績設備の減少に伴い、綿花輸入が減少しました。

〈綿の種を伝えたインド人僧侶〉

 「インドと日本の歴史」の主題に移りましょう。まず「インドの綿(産)業と原綿は、日本の産業化プロセスにおいて非常に重要な役割を果たした」ということです。インド文化は日本文化に大きな影響を与えました。インドと日本の交流は、仏教が中国と朝鮮半島を経て日本に導入された6世紀に始まります。その後、インドの仏教僧が日本に来て、仏教の教えを広めました。インドに関する古い記録に現れたもう一つの出来事は、「最初の綿の種がインドの僧侶によって日本にもたらされた」ということです。これは799年のことだと記録されています。

 この若い男は、身長が167センチ、耳の長さが9センチで、小舟でどこかに向かう航海の途中、嵐のために日本中部に漂着しました。彼は人生の後半を日本の仏教寺院で過ごします。写真の絵は後年の彼を描いたものでしょう。信じるか信じないかは別として、毎年10月に綿の種の到着を祝う行事が愛知県西尾市の神社で続いています。

 日本で綿花栽培が広く普及するのは、それから700年後の16世紀になってからです。日本はかつて綿花生産から織布までのコットン・サプライチェーンを国内に持っていたのです。綿花は農家にとって重要な換金作物でした。綿花の先物取引所も1757年から1787年に閉鎖されるまで存在していました。

〈日本の綿繊維産業の基盤を築く〉

 1855年、日本は250年にわたる鎖国政策の変更を余儀なくされ、貿易の扉が開かれます。英国の綿製品が日本市場に流入し、日本市場を支配しました。それらは国産の手作りの糸や織物よりも安くて品質が良かったのです。これが日本の綿花栽培とその産業にダメージを与えました。

 1868年、日本は明治維新によって676年続いた武家政治が終わり、欧州のような立憲君主制を採用します。新政府にとって外国の綿織物の流入とその国内の綿繊維産業への影響は差し迫った問題となっていました。幾つかの工場が政府によって建設されましたが、全て規模が小さく効率的ではありませんでした。

 1882年、大阪に日本初の近代的な完全機械式の民営紡績工場が設立されます。1万5000錘の紡績設備は英国から輸入したものです。工場には輸入綿糸に対抗するための生産設備が備わっていました。その後10年間で大規模工場が数多く建設され、日本の紡績設備は40万錘に達します。しかし、当時のイギリスの紡績設備は4000万錘を超えていた。日本の繊維産業は依然として大きく立ち遅れていたのです。

 その頃、日本の紡績工場は国産の綿花と中国の綿花を原料として使用していました。国内の綿花供給は需要を満たすことができず、中国綿の品質では、より細い糸(最大16番手)を作ることができなかったので、より良い綿花を輸入する必要が生じていました。この解決策がインドの綿花だったのです。

 1889年、日本政府はインドの綿花と綿花産業を調査するためインドに調査ミッションを派遣しました。このミッションは、試紡用としてタタ商会から230俵のインド綿を購入し、良質の糸(20番手)製造に成功しました。それから1892年までのわずか3年間で、インド綿は日本の原綿消費量の半分を占めるようになり、中国からの綿花輸入量を上回ります。インド綿の輸入は、後に世界トップレベルになる日本の綿繊維産業の急成長の基盤を築いたのです。

 1891年、タタ商会は神戸に事務所を開設し、インド綿の輸入を開始しました。その当時、インドと日本の間には直行船便はなく、唯一の方法は香港/上海で積み替えるしかありませんでしたが、そのルートは英国、イタリア、オーストリアの海運会社による海運同盟(カルテル)に寡占されていました。カルテルによる高額運賃、船腹不足が日印貿易の障害になっていました。

 この状態を打破するために1895年JN・タタ氏(タタ財閥の創始者)が来日し、日本とインドで共同配船することで合意します。その結果、運賃引き下げに成功し、日印間の通商は大いに増加することになりました。インドからは原綿を積み出し、日本からは当時の主要輸出品であったせっけん、マッチ、洋傘、日本茶、シルクなどが東南アジア向けに積み出されました。

 1896年、綿花の輸入税が廃止され、インドは日本にとって最大の綿花輸入相手国となります。その後、インドは長年にわたって日本の綿花輸入における最大シェアを維持してきたのです。1926年にはインド産の綿花が総輸入量の87%を占め、同様にわが国からの綿製品輸出の80%がインド向けでした。1910年から1940年の間、日印二国間貿易は顕著に高水準を維持しています。

〈日印綿花取引と安川雄之助〉

 最後に日本の貿易会社と日印の綿花取引を巡るある若者について触れたいと思います。

 私は日本綿花協会に籍を置く前は東洋棉花の社長でした。この会社の源流は三井物産の綿花部門です。三井物産の綿花事業は1878年に始まります。その当時、日本に住む華僑は既に自分たちのネットワークを確立していました。三井物産は中国綿を彼らから購入しましたが、それは非常に高価でした。まだ紡績のニーズが小さい間は、それでも大丈夫でした。しかし、紡績の規模が大きくなるにつれ、他の供給元を見つける必要が生じました。

 1892年、23歳の若者が、初めての綿花買い付けのため三井物産からムンバイに派遣されます。彼の名前は安川雄之助。ムンバイで唯一の日本人駐在員でした。彼がムンバイに到着した後、この勤勉な若者は代理店を通じて綿花を購入し始めました。彼の初年度の買付高は3000俵でした。彼の任務を終える6年間後には、これが20万俵に拡大しました。後に彼が回想録に、ムンバイでの三井物産の成功は、そこで働いていたあるインド人紳士のおかげだと書いています。このインド人紳士は大変な人格者であり、後に議会の議員となり、サーの称号を受けました。ちなみに安川氏は日本に帰国後、やがて三井物産の筆頭常務(今の社長)に就き、日本経済界の重鎮となります。彼はまた大手化学繊維会社である東レの創設者としても知られています。

 初期には私たちはラリー・ブラザーズ、ボルカートなどの欧米シッパーや地場の綿花商からインド綿を購入しました。1904年、私たちは綿花農家から「直買(じきがい)」を開始します。それは困難でリスクのある仕事でしたが、生産者からの直接調達しコントロールすることは日系綿花商に利益機会をもたらしました。

 1人から始まった三井物産のムンバイ事務所は事業を拡大し、15年後には日本人駐在員20人、インド人300人以上を雇用しました。三井物産(東洋棉花)に続いて日本の二つの商社、日綿實業と江商も事務所を開きます。綿花とテキスタイル貿易の拡大により、日本の銀行、海運業、学校などもムンバイに開設されていきました。家族を含む数百人の日本人が、戦争によって帰国するまでムンバイなどインドの都市に長年にわたって暮らしていたのです。

 日印の綿花貿易の歴史を共有する機会を与えてくれたインド綿花協会に感謝します。アーカイブに保管されている会社の記録を見直した結果、私は多くの新しい事実、特に両国の密接な関係とインド綿の果たした役割を学びました。

 最後に再度、「インドの綿花なしでは、日本の発展と工業化は不可能だったか、あるいはかなり遅れていた」と言いたいと思います。