繊維街道 私の道中記/インテリックス 社長 木村 明人 氏(2)

2018年03月13日(火曜日)

父の反対押し切り新会社

   木村は、畳材料の卸商を営んでいた木村商店の5代目に当たる。

 木村商店は、初代の木村藤十郎が江戸時代に創業した荒物雑貨を扱う野藤屋(のとや)をルーツにしています。事務所の上に自宅があり、幼い頃から4代目の父、一朝が働く姿をよく見ていました。

 畳が身近だったこともありインテリアに興味を持ち、大学卒業後、1982年にインテリアメーカーの住江織物へ入社しました。

 配属先は東京支店営業部。自由に仕事ができる社風で、住江織物で先駆けとなった通販分野の開拓にも取り組みました。後にインテリックスの工場建設の際に、建設資金を貸与してくれることになる東京支店長にも出会えました。

 勤め始めて5年ほどたった頃、父から「体調が悪くなったから帰ってこい」と言われました。父は住江織物の本社にも出向いて談判。実家へ戻ることにしました。

   しかし、畳材料の卸商とは別の道を歩むことになる。

 漠然と家業を継ぐことは考えていました。代々続いてきた商売ですが、住居の床が畳からカーペットに置き換わっていく中で将来への不安も感じていました。

 木村商店は、畳施工・壁紙施工の省力化機器をはじめとした総合FAメーカーである極東産機の和歌山県内の販売代理店も担っていました。ある時、兵庫県たつの市に本社がある極東産機で畳の機器を見学する機会がありました。時間が余り、案内担当の方が「カーテンの縫製機器も作っている」と案内してくれたのですが、その縫製機器を見て、これだと直感しました。

 「鉄は熱いうちに打て」と、カーテン縫製がしたいことを父へすぐ相談しました。しかし、返ってきた言葉は「縫製なんて女、子供がすることだ。やるのだったら勝手にしろ」。

 カーテン市場では縫製事業の好機が訪れつつありました。カーテンメーカーはかつて原反販売が主流で、縫製はカーテン小売店や地元問屋が小規模に担っていました。それが昭和の終わり頃からメーカーが縫製まで手掛ける必要性が指摘され、一定の規模を持つ縫製工場が求められ始めていました。

 極東産機の協力を得て、機器の扱いと縫製技術の習得を進め、90年にインテリックスを創業しました。父はあくまで反対でしたが、会社の資本金1千万円を提供してくれました。社名には「インテリアプラス“X”(無限に広がる)」という意味を込めました。

 実家にある自分と姉の部屋、客間をつぶし、駐車場に立てた建物とつないで縫製工場を開設。親族とパート5人ほどでの出発でした。

   ここからインテリックスの快進撃が始まる。

(文中敬称略)