繊維街道 私の道中記 森弥毛織 社長 森口 和信 氏③

2018年12月19日(水曜日)

本社移転し、積極投資

 森弥毛織は、1970年に現在地の大阪府泉大津市寿町に本社・工場を移転する。

 国産毛布は、戦後の高度成長期の中で増産が続いていました。大阪万博が開かれた1970年に隆盛を極め、年間約3200万枚の毛布が生産されています。その中で当社も創業当初の助松町の工場が手狭になり、移転を決めました。

 新工場では、積極的な設備投資を行う。

 タフト機に続き、76年にカールマイヤー編み機を導入しました。一口に毛布と言っても、多様です。高級毛布としてのウールや獣毛の織毛布は確固たる地位がありましたが、大衆毛布としては昭和30年代後半にレーヨン使いの織毛布、40年代にアクリル使いのタフト毛布、50年代にはそれがマイヤー毛布と移り変わり、やがてそれが全盛となります。その流れに当社は即応してきました。私が入社した82年、当社では織り、タフト、マイヤーと3種類の毛布を製造していました。

 工場の出し値は当時、アクリル織り毛布が3千円台、同タフト毛布が2千円台だったのに対し、同マイヤー毛布は5千円以上でした。さらに織り、タフト毛布は紡毛糸使いでしたが、マイヤー毛布は梳毛糸使いですのでマイヤー毛布の拡大によってアクリル梳毛糸の需要が高まり、ファイバーメーカーにとってもエポックメーキングな時代でした。

 その後、マイヤー毛布が市場を席巻していく中で、当社もマイヤー毛布に特化していきました。

 本社・工場移転には、増産以外にも狙いがあった。

 染色工程が課題でした。当時、2社へ染色をアウトソーシングしていました。しかし、生産が拡大傾向にある中で、納期コントロールがますます難しくなってきていました。

 泉大津を中心とする毛布産地は、社会的分業といわれ、各工程を分業することで、繁閑の季節的なリスクを互いにヘッジして形成している産地です。しかし、当社はあえて一貫生産を目指しました。工場の敷地面積は約3100坪(約1万230平方㍍)。染色設備を将来的に設ける計画で移転しました。

 この選択が、森弥毛織が生き残る上での大きな武器になっていった。