繊維街道 私の道中記/内外特殊染工会長・内外特殊エンジ社長 岩見 秀雄 氏②

2019年03月12日(火曜日)

「染工場はもうかる」

  岩見は、父が用意してくれた5千万円の資金で、京都市南区の古い工場を買い、これまでにない染色工場にしようと意気込む。1960年、岩見22歳の時である。

 500人、千人規模の染色工場がまだまだあった時代です。数十人規模で、それも当時は周りが田んぼや畑ばかりのド田舎の木造の古い工場で働いてくれる人を探すのは大変でした。募集をかけると、自転車で面接にやっては来たものの、中に入らず帰ってしまうという具合でした。

 だから、働きに来てくれるだけでうれしかった。工場の中に寮を作ったのですが、私は実家ではなくその寮に住み、約20人分の食事も作りました。朝は早めに工場の門に立って、自宅などから出勤する社員を出迎えました。今日も来てくれてありがとうという気持でした。

  岩見は40歳の時、京都の染色業界の集会で、「もうからない」とぼやく同業者を前に、「染工場はもうかる。当社は最後まで残ってみせる」とたんかを切ったことがある。その自信は、人集めに苦労した新工場立ち上げ当時からあった。立ち上げと同時に岩見は、工場用の設備の開発に取り組む。

 「サンフォライズ」という米国で開発された生地の防縮加工をできるようにしたかったのですが、設備が高くてとても買えない。そこで、それに似た原理の加工法を考え、自ら設備の設計図を書いて、機械メーカーに作ってもらいました。高校で機械科の講義にも顔を出し、設計図についても勉強していたことが役に立ちました。

  この機械の開発で岩見は、京都市長から発明賞を受賞した。新工場立ち上げの2年後のことだ。その後も、自らの工場用の設備を次々と発明する。

 当時は、ロープ状にした織物を一晩釜に浸けて精練し、翌日に次亜塩で晒すというのが一般的な精練漂白法でした。これだと、2、3㌧の生地の場合、精練だけで8時間、漂白でさらに8時間必要でした。私は試行錯誤の結果、過酸化水素水を用い、広げたままの生地を連続的に精練漂白する方法を採用することにしました。当時は珍しい方法で、このやり方で加工できる設備は米国にしかありませんでした。そこで、J・BOXタイプの連続精練漂白機の設計図を自ら書いて、大手染色機械メーカーに作ってもらい、その1号機を導入しました。

(文中敬称略)