繊維街道 私の道中記/内外特殊染工会長・内外特殊エンジ社長 岩見 秀雄 氏③

2019年03月13日(水曜日)

独創的過ぎて理解不能

  岩見の発明は、独創的過ぎるが故に、その実現性を理解してもらえないこともあった。

 パッド・スチームによる生地の連続染色法を考案し、設備も設計しました。それを自社に導入するつもりで、当時の大手機械メーカーに製造を依頼したのですが、断られました。欧州にも例がない染色法だったので、理解できないと言う。すると、イタリアの機械メーカー2社が技術を売ってほしいと言ってきました。両社が私の発明を知ったのは、日本だけでなく、ドイツやイタリアでも特許を申請していたからです。

 2社に合計2千万円で技術を売ると、うち1社がその技術を持つことを発表しました。私の製造依頼を断った日本の機械メーカーは私が売ったことを知らなかったので、「岩見さんが見せた設計図と同じ物が欧州にある。岩見さんはそれをまねたのでは」と言ってきた。その日本の機械メーカーは、イタリアのメーカーから技術を買って、製造を開始しました。その1号機を導入したのは、当社です。1970年でした。

  岩見は、工場を作った当初から操業の無人化を夢見ていた。

  無人化を狙って72年に、工業用テレビカメラとモニターを40セット導入しました。工場でテレビカメラを使い始めたのは私が最初ではないでしょうか。各工程にカメラを設置し、工場内の2カ所で、全工程の進捗(しんちょく)を同時に見られるようにしました。

 結果を言えば、無人化は難しかった。しかし、大幅な省人化につながりました。当時の当社の従業員は50人ほど。会社の規模が従業員数で決まるのなら、小さい方ですが、売上高と従業員数は比例しないと当時から思っていました。一般的な染工場の当時の1人当たり売上高は50万円ほどでしょう。しかし当社は100万円でした。ここまで生産性を高めることができたから、今も生き残れていると思っています。

  染色加工事業を軌道に乗せた岩見は1993年、自らの工場のために作った機器を販売する内外特殊エンジを設立する。

 私が開発した機器を売ってほしいと、同業他社があの手この手で言ってくるようになりました。父は、自分の首を絞めることになると反対していましたが、「あんたになら売る」といった感じで、実績が増えました。そして、エンジニアリング部門を設け、本格的に販売するようになりました。

 大手染工場の担当者は、「なぜ小さい染工場から技術を買わないといけないのか。自分で開発できないのかと」社内で言われ、買いたくても買えないと困っていました。仕方なく商社を介して販売するといったことが重なって、別会社を作ることにしました。

(文中敬称略)