繊維街道 私の道中記/豊栄繊維 代表取締役 北丸 豊 氏(1)

2019年04月22日(Mon曜日)

継ぐ気はなかったが……

 大手生糸問屋兼レースメーカーとして祖父が創業した豊栄繊維(京都市)の社長に、21歳、大学3回生の時に学生のままで就任した北丸豊氏(66)。今回は、学生社長として社会人のスタートを切り、絹とレースに情熱を注いできた北丸氏の繊維街道を紹介する。

 祖父、北丸政吉は、当時日本一の生糸問屋だった京都の大橋雄之助商店の一番番頭でした。蝶理は、同じく京都の生糸問屋、大橋理一郎商店として創業しましたが、大橋雄之助商店はその本家筋に当たります。

 祖父は、税制変更で事業継続に嫌気が差した大橋雄之助商店の店主に「廃業するから商権を引き継いでほしい」と言われ、1919年に北丸商店を創業し商権と従業員を引き継ぎます。それから数えて今年で100年になります。

  同社は25年に別会社を作り、日本初のカーテン用ラッセルレース工場を設け、満州にも進出した。しかし、第2次世界大戦を経て、満州の工場は接収されてしまう。日本の事業も統制で中断していた。

 祖父は統制解除の47年に京都レース織物を設立し、レース、インテリア織物の製造を再開します。50年に、同社の社名を現在の豊栄繊維に変更し、生糸問屋業も再開しました。

  祖父と共に同社を支えた父、隼三の長男として北丸が誕生したのは、その3年後、53年のことである。北丸は、豊栄繊維の成長を見ながら育った。

 豊栄繊維は62年に、ガードル向けパワーネットの生産に日本で最初に着手しました。63年には、ラッセルレース機の落下版を発明しています。これは一世を風靡(ふうび)しました。63年には香港、シンガポール、マレーシア、韓国、ドバイにエージェントを置き、レースの直輸出を開始しました。64年には、父の隼三が、京都の経済使節団の一員として、ソ連から中国に入り、生糸の輸入契約を結びました。民間人が中国に入ったのは戦後初だったと思います。

 翌年、中国からの生糸輸入を始めました。もちろんこれも、戦後初です。中国の生糸を緯糸として使うことで生地値を抑え、経糸用としての日本の生糸への需要を守ろうというのが父の思いでした。

  祖父、政吉が74年に死去。それを受けて専務だった父、隼三が社長に就くが、隼三も1年後の75年に死去する。当時21歳、京都工芸繊維大学3回生だった北丸は、大きな決断を迫られる。

 父は、一中、三高、京都帝大と進んだ典型的秀才で、大学に残って学者になるつもりだったそうです。ところが大学卒業の年はガチャマン時代で、繊維業界は驚くほどにもうかっていた。そこで三菱本社に入社したのですが、財閥解体で子会社に行かされてしまいます。ならばと、祖父の後を継ぐことにし、当社へ入ったわけですが、大学に残っていた方がよかったと言っていました。

 だから父は私に、後を継げとは言いませんでした。好きなことをした方がいいと。祖父は、継げと言っていましたが。

 私自身も継ぐ気はありませんでした。父が亡くなった時点で私は、京都工芸繊維大学の3回生でしたが、卒業後は京大の大学院に進むつもりでした。おじたちは全て学者という環境で育ちましたから。繊維高分子化学者で京大名誉教授だった北丸竜三さんも叔父です。その研究室へ行くつもりでした。

(文中敬称略)