繊維街道 私の道中記/豊栄繊維 代表取締役 北丸 豊 氏(2)

2019年04月23日(Tue曜日)

「君は新しい仕事を」

  豊栄繊維の業容は拡大し、売上高は40億円ほどに達していた。ラッセルレース工場も持っているので、従業員は100人ほどいた。

 父が亡くなった時、父の遺体の横で当時の専務が、「豊君、明後日の葬式で次の社長を発表するから、会社を継ぐか継がないかを決めてくれ」と言う。「どちらでも構わないが、もし継がないとなると、会社がつぶれ、下請けさんの家族も含めると3千人ぐらいの人に迷惑を掛けることになる。もし継いでくれたら、収入、生活は保証する。しかも誰にも迷惑を掛けずに済むが、好きにしてくれていい」と。まだ21歳の、父を亡くした直後の男にそんなことを言う。後で思うと、当時、会社は無借金。京都市内に約1万平方㍍の不動産も持っていた。私が継がなくてもつぶれるはずはなかったのですが。

  北丸は、学者になる夢を諦め、父の跡を継ぐことにした。

 当時の商売の柱は生糸問屋業で、当社が代理店になっている製糸会社の糸や、商社を通じて中国から輸入した糸を在庫し、糸商へ販売していました。日本が輸入する生糸の18%は、当社が販売していました。

 ところが1973年の「輸入一元化制度」のスタートで輸入枠が設けられます。輸入枠を割り当てられた商社は、当初は最優先で当社へ流してくれました。ところが先方の社長が変わると、特別扱いをしてくれなくなっていきました。

 糸を在庫して糸商へ売るという糸問屋業は難しくなると専務が判断し、この商売をぐっと減らしました。それに替えて、糸を撚糸加工して織布工場へ売る糸商としての仕事を増やしました。

 全社売上高40億円のうち38億円ほどは糸問屋業によるものだったのですが、それを1年で10億円まで意図的に減らしました。2億円程度だったレースの商売は逆に増やす。98年ごろまで一本調子で増え、30億円ほどに達しました。

  北丸は社長にはなったが、大学を辞めたわけではない。

 大学では微生物専攻に分属され、4回生になると微生物を研究するはずでした。ただ、社長業兼務では実験をこなすことが難しい。そこで教授会に、実験のない専攻に替えてほしいと頼み込み、蚕業経営学講座に替えてもらいました。指導教授に、日本の絹業にとって生糸の流通は重要だと思うと話しを向けると、「そうや。ただ、外部から見ているとその実態がなかなか分からない」と答える。そこで、「大学へ来ずに会社でそれを調べてもいいですか」と問うと、「そうやな。それでええよ」と。いい教授でした。

  約束通り、年鑑などをひっくり返し、西陣の流通について調べた。同時に、仕事にも取り組む。ただ……。

 私の社長就任が発表された日、レースの部長と生糸の部長に呼ばれ「豊君、糸は私がするし、レースは彼がやる。君は新しい仕事を見つけて、創業者の苦労を味わってくれ」と言われた。今にして思うと、若造に口を挟まれるのが嫌だったのでしょう。なので、しばらくは新聞を読んだり、統計を調べたりしていました。(文中敬称略)