繊維街道 私の道中記/豊栄繊維 代表取締役 北丸 豊 氏(3)

2019年04月24日(Wed曜日)

「ハロー」でダメなら

  京都工芸繊維大学を卒業し、社長業に専念し始めた頃、北丸は新たな商売を見つける。

 リバーレースを欧州から輸入しようと思い立ちました。当社はラッセルレースを作り、中近東へ輸出したりしていたのですが、これだけでは将来厳しくなる、もっと高級な商品も必要だと思ったからです。

 当時、欧州のリバーレースを扱う日本の販売代理店はもうかっていた。3億円の売り上げで1億円の利益を出している会社もありました。

 京都府の西陣21世紀会議というのがあり、若手をメンバーとするパリ、ミラノ、コモを巡る経済使節団を組んだ。それに参加しました。そこで分かったことは、日本企業のほとんどはパリの問屋からリバーレースを買っているが、産地はカレーだということ。3億円の売り上げで1億円の利益を出す企業が日本にあるのは、カレーのメーカーから直接仕入れていたからだと分かりました。

  そこで単身、カレーに向かう。

 メーカーがどこにあるかも分からないので、電話帳で調べ、一軒ずつ飛び込みました。しかし、ドアを開け、「ハロー」と言っても、誰も見向きもしない。4、5軒行きましたがどこもそう。そこで、日本語で「まいど、おおきに」と大声で叫ぶことにしました。すると驚いて振り向いてくれる。結果、訪問した10軒中の1軒が、当社をエージェントにしてくれました。

  祖業である生糸事業の環境は大きく変化していた。

 生糸に続き、絹織物も輸入制限の対象になりました。ところが制度をよく調べると、編み地は対象になっていない。通産省(現・経済産業省)に問い合わせると、輸入しても構わないと言う。で、中国・浙江省の製糸会社に機械を持ち込んで、絹製編み地を作ってもらうことにしました。1984年のことです。翌年から日本のインナーメーカーに採用され始めます。86年には大手インナーメーカーが、絹を切り口にした商品群に採用し、フルアイテム展開しました。これがヒットします。当時、日本が輸入する絹製編み地の90%以上は、当社が作らせたものでした。

  生地輸入を軌道に乗せたものの、国内の絹産業は衰退の速度を速めていた。

 1992年の正月に京都工芸繊維大学の松原藤好教授のところへあいさつに行きました。松原教授は、蚕がウイルスに感染して病気になるのを防ぐために、無菌状態で蚕を飼う研究をしていました。人工飼料を、無菌状態の試験管の中の蚕に定期的に与えていたのですが、年末年始のしばらくの間、それを忘れていた。ところがちゃんと繭を作っていたというのです。で私が、「無菌状態で一定量の餌さえ置いておけば、人間が餌替えせずとも蚕は育つということですね」と問うと、「そやなあ」と。「もしかしたら、労働集約型産業である日本の養蚕を救えるかもしれないなあ」という話になりました。

  北丸は、この考えを実験プラントで確かめようと考えた。

(文中敬称略)