繊維街道 私の道中記/ユキトリイ・インターナショナル デザイナー 鳥居 ユキ 氏(2)

2019年06月25日(Tue曜日)

10代から基礎固め、パリコレで花開く

  19歳でコレクションデビューを果たしたが、15歳の頃からさまざまな分野で研鑽(けんさん)を積んでいた鳥居。オリジナルの生地を作ることで染織全般の知識を得て、19歳の時に母・君子から「この世の中で美しいものを全て見て来なさい」と背中を押され海外に。この時の経験と基礎が、今も息づいている。

 芸能界との仕事が増え、それに伴い、テレビや雑誌で服を紹介されることも増えました。さらに同時進行でパリへ行き、母の知人(当時、世話になった貴族階級のマダム)が私を連れて、とにかく歩いて歩いてパリの街並みを見て回りました。アパートメントの裏庭や教会のステンドグラス、建築物を見ては「サ・セ・パリ」(そうよ、これがパリなのよ)と。言葉は通じないのに感覚で分かってしまうという強烈な体験をしました。観光ではなかったので、好きな美術館やお芝居を見たのですが、その時の体験が大きな宝になっています。

 また、ホテルの近くにあったブラッスリー(飲食店)では、座る席が決まっている大物の常連客と、新聞配達員のような普通の労働者が身分に関係なく、同じコーヒーを飲んでいました。そんな人間模様もパリの一部として興味深く眺めていました。なんとなくパリが性に合っていたんですね。母の勧めもあり、米国や英国、オランダ、ベルギー、イタリアにも行きましたが、すぐにパリへ戻りたくなりました。当時、英国・ロンドンではツイッギー(モデル)に代表されるミニスカートがブームになっていました。

  エネルギッシュな雰囲気のニューヨークは「面白かった一方、(チャンスを求めて)人々が戦う場という感じがしました」と鳥居は述懐する。当時のパリは、穏やかに生活できる都市でもあり「自分に合っていると直感した」と言う。そして、いよいよパリコレクションデビューを果たす。

 パリコレでのデビューは1975年。今考えると、母は、何年もかけて私がパリでデビューする足掛かりを築いてくれたのです。母は「やるなら長く続けなくてはいけない。そのためにはしっかりとしたパートナーと組むこと」だと言っていました。パリで100以上のショーがある中、日本人であることを印象付ける服と演出で、「ユキトリイ」らしいショーを作り上げることに全力を注ぎました。

 当時、PRを担当していたジャン・ジャック・ピカール氏(その後、エルメスのPRやLVMHのアドバイザーなどを歴任したファッション業界の重鎮)の戦略も奏功し、シャンゼリゼ通りの和食レストラン「美紀」で開催したショーは大きな反響がありました。有力ファッション誌の「ヴォーグ」「エル」「フィガロ」などから貸し出し依頼が殺到し、限られたサンプルを回すのに必死でした。

  フランス人から見て、井桁絣(井戸の縁に木を四角く組んだ井桁を文様化したもの)や浴衣の生地とオリジナルの花柄プリントをミックスしたコレクションは、無駄のないモダンなアイテムと認識された。センセーショナルなデビューで、鳥居への評価も一気に高まった。

(文中敬略称)