明日へ これが我が社の生きる道 染色加工編(29)

2019年08月02日(Fri曜日)

野崎染色 インクジェットで“夢”を買う

 「インクジェット捺染機を導入していなかったら存続できていなかったかもしれない」。野崎染色の野崎智之社長(58)はこう語る。無地染色だけでは事業継続は困難だったとの自覚がある。今ではインクジェット捺染は同社の柱に成長し、無地染色との売り上げはほぼ等分。そして、第3の柱も着実に育ちつつある。

 智之氏の祖父、野崎半次郎氏が1945年に京都市下京区で創業。71年、後継者だった父が若くして他界したことで、智之氏の母で現会長である博子氏が野崎智染工場を独立創業し、和装向けシルク生地の無地染色専業として事業を始めた。

 80年には有限会社野崎智之染色を設立。智之氏が20歳の時だった。以降、洋装向けの設備を順次導入し、82年には同市中京区に移転する。DCブランドが隆盛を極めたこの頃、同社も受注数量を大きく伸ばす。アパレル業界の“シルクブーム”が強烈な追い風になった上、和装の低迷を見越して洋装の設備を入れていたことが奏功した。“京都筋”のコンバーターや大手アパレル、商社など名だたる大手企業が取引先に名を連ねた。

 92年には現住所に移転。ほぼ同時期にバブル景気が崩壊する。アパレル生産の海外移転が加速し、同社の加工数量も低迷していく。その後、2004年に生糸の輸入関税が撤廃されたことで中国製のシルク生地が大量に輸入されるようになり、同社の加工数量もバブル期の水準にまで戻った。しばらくは安定経営が続く。しかし08年のリーマン・ショックで再び業績は低迷する。

 それでもここまで事業を継続してこられたのは、06年に導入したインクジェット捺染機によるところが大きい。プリント生地商社から同機への依頼が徐々に増え、今では売り上げの約半分がインクジェット捺染になった。会社始まって以来の捺染事業だったが、「インクジェットという新しい機種でなら勝負できる」と決断したことが今を支える。

 柄開発やデザイン提案という新しい要素が会社に注入されたことは、思わぬ副次効果ももたらした。人材の確保である。デザイン系の学校を卒業した若手が会社に入ってきた。その中には、智之氏の娘と息子も含まれる。「機械を買ったというよりも、結果的には将来性や人材という“夢”を買えたのかもしれない」と智之氏は言う。

 将来性の一つが、無地染色、インクジェット捺染に続く「第3の柱」として拡大に臨む製品事業。スカーフ、着物、ウエディングカラードレスといった最終製品を、ネットを活用してB2B、B2Cで受注、販売するもので、いずれもインクジェット捺染機を用いる。柄表現の多彩さやネットという敷居の低さを強みにそれぞれ売り上げを伸ばしている。

 無地染色を大きく伸ばすことは難しい。インクジェットは好調だが、ファッショントレンドに大きく左右される。2本よりも3本のほうが柱は安定する。3本目の成長を待ちわびる。

社名:株式会社野崎染色

本社:京都府亀岡市大井町南金岐重見50

代表者:野崎 智之

主要設備:精練染色機(つりタイプ)44台、液流染色機4台、ウインス染色機3台、マングル2台、シリンダー乾燥機2台、クリップテンター1台、ピンテンター1台、フェルトカレンダー2台、タンブラー乾燥機2台、巻き取り検反機2台、インクジェットプリンター3台、のり付け装置2台、連続蒸し機1台、スエード加工機1台、など。

従業員:20人

(毎週金曜日に掲載)