繊維街道 私の道中記/東海染工 会長 八代 芳明 氏(2)

2019年08月06日(Tue曜日)

「所長がお決めになること」

 慶応義塾大学を卒業した八代は、父の勧めで東レに入社する。

 織物販売部のナイロン織物課に配属されました。当時の同部には、「外で勝つ前に内で勝て」という雰囲気がありました。隣の課に負けるなということです。

 新入社員はデリバリーを担当し、染工場に通うのですが、隣のポリエステル織物課のデリバリー担当も行き先は同じ。上司からは、隣の課よりも納期を早くしてもらえと指示が出るのですが、隣の課の担当は1年先輩だったのでどうしても負ける。でも、それは許されない。灰皿が飛んできて、「1カ月間、染工場におれ」と怒鳴られる。で、1カ月間そうしました。

 染工場の仕事を手伝ったわけではない。隣の課が送ってくる生機を倉庫の奥の方に押し込み、自分の課の生機を先に染めてもらえるようにしたのだ。当時の隣の課の関係者が知ったら怒るだろうが、この件はもう時効ということだろう。

 東レさんには5年ちょっとお世話になりました。特に、最初に配属され、2年半ほどいたナイロン織物課では鍛えられました。

 5年を経た頃、東海染工に入社するように父に言われる。

 「これ以上いると、お前は東レの人間になる」と言われました。東レでの仕事に面白さを感じていた私を見て、危険を感じたのでしょう。

 東海染工に入社した八代は愛知県・木曽川の工場(旧木曽川事業所)で、プリント生地の見本作りの現場を担当した。

 朝の5時に出社して、夜の12時に帰宅する。そんな生活を1年間続けた後、京都の工場(旧京都事業所)に異動しました。京都でもプリント生地の見本作りの現場に入りました。

 京都事業所に赴任した八代は1982年に、取締役京都事業所長になる。

 当時の京都事業所はフラットスクリーン捺染機8台の工場で、ずっと赤字でした。京都に加え、名古屋、木曽川の工場も赤字になり始め、経営危機に近くなっていました。銀行は京都事業所を売れと言ってきたのですが、社長である父は嫌だと。で、京都事業所を再生せよとの指令が私に下りる。

 いろいろシミュレーションしました。最後に残った案は二つ。一つは、8億円投資してロータリー捺染機を入れ、生産数量を倍増させるというものです。ただしそれでも2億円の赤字は避けられない。もう一つは、250人の社員を150人に減らすというもので、こちらも2億5千万円の赤字。どちらを選んでも赤。しかし、いずれかを選ばないといけない。

 当時、八代はまだ32歳。当然ながら、社内の先輩取締役に助言を仰いだ。しかし、「それは京都の所長がお決めになることですから」と逃げられる。やむなく、人員削減よりはと設備投資の方を選んだのだが……。

 勝算があったわけではありませんが、ロータリー捺染機を入れる方を選びました。するととたんに、人員削減すべきだとの声が他の取締役から一斉に上ります。

(文中敬称略)