繊維街道 私の道中記/東海染工 会長 八代 芳明 氏(4)

2019年08月08日(Thu曜日)

倒産への恐怖

 京都事業所の黒字化でほっと息をつく間もなく異動を命じられ、名古屋事業所長となる。事業所長としての経験を京都で3年間積み、35歳になっていた。

 当時の名古屋事業所は、ロータリーとローラー捺染を行っており、微妙な赤字でした。赴任してみると、重苦しい雰囲気が立ち込めている。

 当時の従業員は300人で月産量は350万㍍。これだとどうしても赤字になる。そこで、10名委員会というものを作り、労働組合の代表もあえてそのメンバーに加え、この委員会が決めたことを全て実行するから打開策を考えてほしいと伝えました。その組合代表は皆からも煙たがられていたのですが、委員会の議論をすごくリードしてくれ、皆で徹夜もしたりしていました。煙たがられていたのは、事業所を良くするための意見を普段からうるさく言っていたからなのだろうと思いました。で、彼らが提案してきた投資計画を、その通りに実行します。やってやろうという雰囲気が事業所内に広がりました。

 この時にレーヨン生地用の設備も入れました。京都事業所がレーヨンに取り組み始めたのは、実はレーヨンがブームになりかけた時期でした。それがさらに盛り上がった頃に、10名委員会の提案通りに投資したわけです。で、同じ300人の人数で、月産量がピーク時には600万㍍になりました。この時に東海染工は過去最高益を計上したのです。バブル景気がピークに達した時期でもありました。

 1990年1月、八代は40歳になった。そしてその年の11月、社長に就任する。

 社長就任の翌年にバブルがはじけ、日本経済が長く暗いトンネルに入りました。以来20年間ほど、合理化ばかりをやってきたように思います。

 八代は、95年に京都事業所を閉鎖し、名古屋事業所に統合。97年に木曽川事業所を閉鎖し、浜松事業所に統合する。「悔しかったのでは」と問うと……。

 倒産への恐怖がありました。悔しいなどと思う余裕はありませんでした。やらなければアウトだった。その頃の私は神経が張り詰め、周りから見ればカミソリのように怖い状態だったと思います。

 ただ、両事業所を閉鎖・統合しても、シミュレーションでは9億円の赤字でした。しかし労働組合は、「これだけ合理化するのだから、黒字になるのでしょうね」と聞いてくる。「黒字になる」と答えました。そう答えないと収まらなかった。

 で、黒字にするための策を考えました。そこから生まれたのがバイオ起毛の「Jコットン」です。当社が過去に経験したことがないほどにヒットしました。まず米国で採用され、その評判の高さから国内でも需要が広がりました。これにより、組合との約束通り、黒字化しました。とはいえそれも、一瞬のことでしたが……。

(文中敬称略)