明日へ これが我が社の生きる道 染色加工編(33)

2019年08月30日(Fri曜日)

本多染工 受託加工は成長に不可欠

 「リーマン・ショックがあったから今がある」――経済に混乱をもたらした世界規模の金融危機は、東京都内のある染色企業にも影響を与えた。染め上がりの丸編み地販売を伸ばしていた本多染工だ。金融危機で生地販売は激減するが、受託加工は減らなかった。本多正孝代表取締役(64)は「受託加工の重要性を知った」と振り返る。

 1951年、糸染めの工場として長野県飯田市で創業。ウールやアクリルなどの綛(かせ)染めを手掛けていた。その後、同県岡谷市に居を移して糸染めを本格化する。東京には58年に進出し、¥文字('葛'+jp78)飾区で会社を立ち上げる。その頃には糸染めだけでなく、セーターをはじめとする横編み製品の染めも行っていた。

 本多代表取締役は学業を修めた後、大阪府内の染色加工場で修業を積む。「門前の小僧習わぬ経を読むという感じで、染色のことはある程度分かっているつもりだった」と言うが、大阪に出てロットの違い(大阪は大ロット、東京は小ロット)やさまざまな技術を知る。その経験は「今も生きている」と話す。

 東京に戻り、本多染工に入ったのは70年代後半。ウール製品が勢いをなくしていた時期で、その補完のために丸編み地の染めを始める。ただ、「全体としては堅調だった。おかしくなったのは生産場の中国移転が加速したころから。仕事が減り、加工料金も下がった。近隣の染色加工場の多くが廃業」した。

 量を追い掛けることなく、綿・ウール複合をはじめとする“同業他社がやりたがらない”仕事をメインとしていたため、加工料金を維持できた。92年には新工場が稼働するなど順調だった。売り上げが伸びたのは受託加工だけでなく、染め上がり反の販売を行っていたことが奏功した。

 その同社を襲ったのがリーマン・ショック。売上高の6割を占めていた生地販売が激減した一方で、受託加工は落ちることなく、伸びた。「その時に手のかかる仕事は減らないと知った。受託加工を守らないと将来はないと思い、それまで以上に力を入れた。現在にもつながっている」と強調する。

 一時は売上高の3割程度に落ちた生地販売の再強化を進め、回復してきた。しかしながら事業の基本は受託とし、シリコーン系の加工やウールに柔らかな風合いを付与する「ふわふわ加工」など得意技術を生かして伸ばす。受託加工は生地商社との連携を深耕し、海外企業の仕事も増やす。

社名:本多染工株式会社

本社:東京都葛飾区四つ木3―3―5

代表者:本多 正孝

主要設備:液流染色機30台、パドル染色機3台、ワッシャー染色機2台、縮絨機1台、大型タンブラー乾燥機1台など。

月産能力:30~40㌧

従業員:23人

(毎週金曜日に掲載)