繊維街道 私の道中記/藤高 社長 藤髙 豊文 氏(2)

2019年09月10日(Tue曜日)

関西で悩み、楽しむ

 1969年、学生運動の激化で東京大学が入学試験を中止するという前代未聞の事態のあおりを受け、「京都大学に進み、歴史学者になる」という夢を豊文は諦める。

 歴史学者になって象牙の塔にこもり、自分の世界で遊んでいたい――という強い気持ちはありました。しかし、浪人して人生を空費したくなかったし、受験勉強から早く解放されたいという気持ちもありました。

 当時は意識していませんでしたが、経営学部に進んだのも「タオルをやりなさい」という祖父の声の導き、いわば宿命だったのかもしれません。

 入学はしたものの、まだまだ学生運動が盛んなころで、学内が封鎖されていたり、学生同士で意見を過激に戦わせたりと混乱していた時期でした。最初の1年ほどは下宿で寝て過ごしました。

 私自身、ノンポリから左翼思想に染まり、デモにも参加するようになりました。

 学生運動が学内で下火になった2年次以降は授業も再開される。

 マルクス経済学のゼミに入り、「搾取」という概念が頭から離れず、「自分は資本家の息子だ」という引け目を感じました。実のところ、これは今でも同じことです。

 楽しい思い出もあります。「古寺探究同好会」に入会し、関西近隣の神社仏閣や文化財を仲間と見て回りました。当時の仲間とは現在も親交が続いています。

 就職の時期になり、実家に戻ることは考えませんでした。「資本家」になりたくないというわだかまりもありましたし、男として自分で身を立てたい意識もありました。

 しかし、空前の買い手市場であったことと、学生運動をしていたせいで就職活動はことごとく失敗した。当時、企業には「公安」から通知が行っていたからだと言う。

 当時、藤高の社長をしていた父の薫から「ここへ行って面接を受けろ」との連絡が来ました。そこは大阪の信濃橋にあったマーケティングの会社で、30人ほどの企業でした。そこの社長と父は松山高等商業学校の同期生でしたが、当時、両人ともこのことを私に告げることは一切ありませんでした。

 業務は、クライアントの意向に合わせ、消費者ニーズの聞き取り、分析、報告が主な業務で、そのプロジェクトの流れをスタッフと呼ばれる社員が一人で立案、遂行するという業務でした。賞与は成果に応じて分配され、成果主義というものを、就職1年目で体験しました。

 それなりの賞与を得て、プロレタリアートを気取って住み始めた貧乏下宿から風呂付きのマンションに引っ越すような経験をし、資本主義の世界で生きていくならば、どこで働いても同じではないかと思い始めました。

 豊文は同社に3年勤めた後、家業に戻ることを決意する。26歳の時だ。

(文中敬称略)