繊維街道 私の道中記/藤高 社長 藤髙 豊文 氏(3)

2019年09月11日(Wed曜日)

大阪、東京での修業

 1975年、豊文は藤高への入社を決意し、今治へ帰郷した。当時、父の薫は会長に退き、叔父の豊が社長を務めていた。数カ月の本社業務を経た後、豊社長に大阪出張所での「修業」を命じられ、再び関西の地を踏む。

 大阪出張所は父の末弟で、後に4代目社長となる燿(ひかる)が所長を務めていました。

 燿は大阪の制服卸業の辰野での勤務を経て、1968年に南久太郎町に事務所を開きました。辰野時代からの官需の制服など、タオル以外の商権も持ち、今治の本社とはつかず離れずの独立性の高いスタンスを取っていました。

 ここで私はマルクスの言う「資本の命懸けの飛躍」を実感しました。前職の市場調査社では、仕事は上から降ってきましたが、ここでは「商品をお金に変える」という商売の基本を学び、藤高という企業に一歩近づけた気がします。

 燿には、「昼間は事務所にいないようにしろ」と“足で稼ぐ営業”を申し渡されました。そのうち鐘紡が扱う「ディオール」のタオルケットで成果を上げられるようになりました。当時通った同社の淀川工場は“東洋一”といわれていました。今思うと昔日の感があります。

 約2年間の大阪での修業を経て、78年10月に本社勤務の辞令が届く。

 妻の孝子とは、市場調査社で出会い、この時も交際を続けていました。ここからしばらく“遠距離恋愛”になってしまいましたが。

 本社に戻り、取締役次長の肩書きが付きましたが、職掌も権限もありません。既存の得意先は古参の社員が全て握っており、私がやることはありませんでした。そこで東京事務所の立ち上げを具申すると、あっさり許可が出ました。

 東京の五反田に住居兼事務所を設け、問屋の新規開拓を目指しましたが、やっと取った注文も本社は多忙で、邪魔にされる始末でした。

 仕方なく、本社の大きな取引先だった西川産業に日参し、商談室で一杯のお茶を飲んで時間をつぶす日々でした。それでも1人でいる私にわざわざ声を掛けてくれる人もおり、商売にも「情」が必要だとしみじみ思った記憶があります。

 形を変えながらも大阪、東京での修業時代が続いていたが、思わぬ形で終わりを迎える。

 東京事務所の開設から間もなく、父であり会長の薫が末期がんであるとの報せとともに“召還命令”が届きました。

 当時の“告知”は微妙な問題で、母は父にがんのことは隠していました。私は何食わぬ顔で本社に出社し続けましたが、病勢が進むと夜もまんじりともせず、朝になって、これが悪夢であってくれたらと思いました。

 藤高の2代目社長で豊文の父、薫は壮絶な闘病の末、1978年10月に亡くなる。

(文中敬称略)