繊維街道 私の道中記/藤高 社長 藤髙 豊文 氏(4)

2019年09月12日(Thu曜日)

歴代社長の下で学ぶ

 父、薫の葬儀は、私が祖父の豊作から「タオルをやりなさい」との言葉を受けた「湊」の別邸で執り行われました。

 父は寡黙で怖い存在で、距離を置いていたのですが、いざ死が迫ると大泣きで自分でも不思議なくらいでした。それまでにあまりに泣いたせいか、葬儀の時には不思議と涙も出ませんでした。

 その葬儀から1年後、大阪時代から交際を続けていた孝子と遠距離恋愛を実らせ結婚する。1979年、30歳の時だ。

 社長の豊らが父親代わりとなって挙式の準備を進めてくれました。招待客の多さに「あまり派手にしないでほしい」と口を出すと、準備を手伝ってくれた某タオル会社の重役に「式はお前のためじゃない。会社のためにするんじゃ」と一喝されました。

 豊の下で、タオル製造と販売に取り組む。この頃、タオルケット全盛の時代から、タオルギフトの時代へ移行が始まる。

 豊はアグレッシブで、古い言い方で言えば「モーレツ」な人物でした。精力的に業務を取り仕切り、部門や部署があっても工場長以外の“長”はおらず、「社長以外は全て一兵卒」でした。

 当時は、海外ブランドのライセンス品全盛の時代で、当社も「クリスチャン・ディオール」「ラコステ」「フェンディ」「サザビー」「バーバリー」など多くのブランドのOEMを手掛けていきます。

 当社の生産部門の技術力は高く、多くのヒット商品に恵まれました。

 一方で、ブランドの消長はめまぐるしく、一つのブランドの流行は大体7年から10年で変わっていったため、ブームが去ると、また一から築き上げなくてはならず、ブランドを渡り歩くような状況でもありました。

 “一兵卒”の豊文は営業活動の中心的な存在に育って行った。しかし、1987年、晴天のへきれきが起こる。

 9月4日のことです。私はいつものように東京に出張していました。当時、携帯電話はなく、訪問先に電話が入り、「未明に社長が亡くなった」と。

 四国タオル工業組合(現今治タオル工業組合)理事長も兼務し、激務であったのは知っていましたが、予兆は全くありませんでした。

 大急ぎで今治に帰って、葬儀の喪主代行を務めたのですが、この間の記憶はほとんどありません。豊の友人や組合にお世話になったはずです。

 後継の社長には大阪出張所で豊文を鍛えた燿が就き、豊文は専務に就く。

 緊急事態で、社長になれるのは、叔父の耀か私の二択でした。当時、社内の“実務”は私が仕切っていましたが、祖母、ツルヱの「耀にも社長をさせたい」という思いも知っていました。

 祖母はこの12年も前に他界しており、この件に関与した事実はありません。ところが燿が「私が社長でよいか」と切り出したので、二つ返事で承諾しました。当時の私は“経営”への自信がなかったからです。(文中敬称略)