繊維街道 私の道中記/藤高 社長 藤髙 豊文 氏(5)

2019年09月13日(Fri曜日)

いかに変化に対応するか

 専務に就任した豊文は、「いつか社長になるまでの“執行猶予”を得たつもりだった」と語る。

 燿は若い頃に今治を出て以降、大阪での暮らしが長く、突然の本社での社長業に苦労したと思います。製造、販売に関する実務面をサポートできた一方、設備投資に熱を上げる私を抑えることで大変だったようです。

 『藤高タオル百年史』によると、燿は就任当初から会う人ごとに「大政奉還」という言葉を用い、豊文へ社長業を早期に譲ることを考えていたようだ。事実、3年後の1990年には会長に退き、豊文が社長に就く。

 私が正式に社長に就任しての初年度、第24期(91年8月期)は、売上高が50億円に届こうかという史上最高であったにもかかわらず、前年度にあった4億円以上の税引き前利益が激減していました。この「24期の謎」は後を引き、多少変動しながらも28期には赤字すれすれまで利益が下降しました。バブル崩壊の時期と重なります。

 豊の時代から、何も変えていないのに利益は残らない――。理由が分からない。

 当時の組合青年部会の活動で、つながりができたアイシン精機の経営指導部門に利益改善の教えを請いました。

 その過程で、当社が常にフル生産を前提としており、それに関わるコスト、さらに在庫が過大になっていることが見えてきました。

 その「改革」に取り組んだ当初は社内に大きな抵抗がありましたが“ムダ”を徹底排除する「トヨタ生産方式」流の改革が進むに連れ、31期から利益は好転し始め、やっと一息つけるようになりました。

 この時期には、今治産地でも海外への生産拠点の移転が続いた。藤高も模索の時期があったが、最終的に国内にとどまることを決断する。

 海外の幾つかの生産候補地を実際に見て回りましたが、「私の目指すもの」を作れないと感じました。しかし、中国産の安価なタオルが津波のように押し寄せて来る現実は変わりません。

 産地では2004年にセーフガードの発動が見送られた影響もあり、失望感が広がっていました。そのような中、06年に四国タオル工業組合(当時)の理事長に就任しました。

 この後、豊文は理事長として「今治タオル」ブランドの確立に、文字通り粉骨砕身する。志を共にする産地内外の協力者を得ながら、同産地は瀕死の淵から「奇跡の復活」を遂げる。

 2019年4月で藤高は百周年を迎えました。この間、東京・銀座の直営店をはじめ、次の世代に事業を手渡していくための布石を打ってきましたが、万全と言うわけにはいきません。

 これまで、たった40年の間ですが、「栄枯盛衰」を山ほど見てきました。企業が生き残るためには過去の遺産にとらわれず、どれだけ変化に対応できるのかが問われると思います。

(この項おわり、文中敬称略)