繊維街道 私の道中記/艶金 社長 墨 勇志 氏 ①

2020年03月23日(Mon曜日)

3男の家系だったので……

 

 「尾州産地の艶金興業(愛知県一宮市)は、染色整理加工を中心とした繊維事業から全面的に撤退する」。2010年4月13日付「繊維ニュース」は、そう伝えた。1889年創業の名門企業の撤退は、尾州産地に大きな衝撃を与えた。しかし、同社の子会社だった艶金化学繊維(岐阜県大垣市、2019年10月に社名を艶金に変更)は今も、染色整理事業を継続している。創業家一族で、艶金興業の常務だった墨勇志(57)が、艶金化学繊維の全株式を買い取って独立したからだ。艶金興業の染色整理事業を存続させようと奮闘したがかなわず、いったんは「燃え尽きた」ものの、再び立ち上がった墨の波乱の繊維街道を紹介する。

  艶金興業の創業者、墨宇吉には5人の男の子がいた。墨勇志は、宇吉の3男である金次郎の孫に当たる。

 創業者の5人の子は全員、艶金興業に入りました。右肩上がりに業績が拡大するいい時代だったので、彼らの子供たちも皆、同社に入社します。そこで、宇吉の長男で2代目社長だった、清太郎は、家督争いで後々もめないようにと、艶金興業の代々の社長を清太郎の家系から出すことを決めました。

 私は、3男だった金次郎の家系なので、親族の一員として手伝うことは求められていましたが、後継者になる必要はなかった。極端に言えば、嫌ならば入社しなくてもいい立場です。

 祖父・金次郎や父・金明は、将来は艶金興業に入れよと事あるごとに言っていました。しかし、親戚の家は同社の近くにあったのですが、当家は離れていました。工場を見て育ったわけでもなく、工場の人々と頻繁に接したわけでもありません。ですので、将来艶金興業に入るという事を強く意識してはいませんでした。

  そんな勇志が、艶金興業創業家の一族であることを思い知ることになる。きっかけは父の死だった。慶応大学の理工学部に入学し、3年生になったばかりの1983年4月、その知らせが届く。

 急ぎ名古屋に戻りました。すると、親戚や艶金興業の社員などたくさんの人が打ち合わせをしていました。父は当時、艶金興業の子会社で、染色加工用の助剤や樹脂を製造するツヤック(愛知県一宮市)の代表でした。打ち合わせの結果、社葬をすることになりました。葬儀委員長は、艶金興業の当時の会長、敏夫。喪主は長男の私。会社、織布工場、薬品の仕入れ先など、いろいろな方が参列されたと思いますが、どなたがどなたやらさっぱり分かりませんでした。ただ、初七日が終わる頃には、自分が艶金興業という会社の創業家一族であるということをリアルに感じるようになりました。

  大学の4年生になると、光ディスクのデータ容量を増やすための原材料についての研究室に入った。研究は楽しかった。その研究を続けるために、大学院に進む。

 教授に指示され、ディスクにレーザー光をピンポイントで当てるための精度の高いプラスチックレンズを研究しました。成果を上げることができ、論文を学会で発表したりもしました。

(文中敬称略)