繊維街道 私の道中記/艶金 社長 墨 勇志 氏 ②

2020年03月24日(Tue曜日)

法事で帰省するたびに……

 父の死をきっかけに、艶金興業の創業家一族であることをリアルに意識するようになったが、大学院を終了すると、同社ではなくリコーに就職する。

 父の死後、大学の夏休みに名古屋へ帰省した私に、艶金興業の当時の会長、敏夫から「自宅に遊びに来い」と電話がかかってくるようになりました。嫌だなと思いながら(笑い)一人で行くと、艶金興業の歴史だとか、今後の方向性などを延々と語るのです。半分ぐらいしか理解できませんでしたが、いずれは入社してほしいという熱意は伝わりました。そんなことが何回かあったので、大学院を修了した時は、悩みました。いずれは艶金興業に入らないといけないとは思っていましたが、いきなり入るのも面白くない。別の会社でサラリーマンを経験しておくのもいいとアドバイスしてくれる人もいたので、大学院で研究していたことを生かせそうなリコーに入社し、横浜の中央研究所に配属されました。

 研究所での仕事は楽しかった。あと10年ぐらいはリコーにいたいと思っていた。ところが1989年11月、艶金興業の敏夫会長が亡くなる。このことが、艶金興業入社を勇志に決意させるきっかけとなった。

 普通なら代替わりの度に親族関係は希薄になるのですが、艶金興業は5家が役割分担しながら維持発展させてきた会社です。冠婚葬祭があれば5家の全員が集まらないといけません。で、死去の知らせがあった翌日に通夜があるからすぐ帰って来いとなる。その後の一連の法事にも全部出ないといけません。

 その都度有給休暇を取って行きました。すると、行くたびに「そろそろ艶金興業に入っては」という話になる。で、ついに入社することに決めました。90年8月のことです。

 実はその時既に、後に妻となるリコーの中央研究所の女性と付き合い始めていました。彼女は川崎市の実家から通っていました。いずれは愛知に戻るがすぐにではないと話していたのですが……。彼女もついてきてくれて、その年の10月に結婚しました。

   艶金興業は当時、本社に隣接する起工場の他に、一宮、津島、岐阜の三つの工場を持っていた。勇志は、一宮工場での半年間の現場実習の後、染色整理や新規事業などについて研究する墨総合研究所に研究員として配属された。

 お客さんからくる色見本と実際に染めた色の差は目視でチェックしていました。その色の差を測る装置が出ており、それで測った方が精度が上がると言われていました。それで、その装置を1台購入し、艶金興業の3工場と子会社の工場全てに持っていって、どのような基準で合否判定しているのかをデータ化しました。すると、工場によって基準に差があることが分かりました。それで、この程度の色差なら合格、この程度なら染料を追加してもっと濃く染めないといけないといったことを判定するソフトを開発しました。それをグループ全工場に導入してもらいました。(文中敬称略)