繊維街道 私の道中記/艶金 社長 墨 勇志 氏 ③

2020年03月25日(Wed曜日)

燃え尽きていた

 墨総合研究所で一定の成果を出した勇志は、起工場で開発、津島工場で染色の現場を経験した後、一宮工場の工場長となる。しかし、起工場に赴任した1992年あたりから既に、尾州産地の生産量は減少に向かっていた。そんな中で一宮工場長となった勇志には、過酷な役目が待っていた。

 一宮工場長になった2年後に、同工場を閉鎖することになりました。リストラ、お客さんへの報告などに追われました。

 その後、コスモクロスという津島市にあった染色整理の子会社に赴任し、しばらくして代表取締役になりました。この会社は黒字だったのですが、艶金興業が大赤字になりかけていたので、その補填(ほてん)のために商権を艶金興業へ移管し、ここも閉鎖しました。

 閉鎖請負人みたいになってしまい、気分がふさぎました。何をするために艶金興業に入ったのかと思いました。

   逆境が深刻の度を増す中、艶金興業の常務に就任した。

 尾州産地全体の生産量が、毎年10~20%のペースで減っていました。艶金グループの売上高も毎年減っていきました。当然、利益もほとんど出なくなる。

 当時は、津島、起、岐阜工場の他に、子会社の艶金染工、艶金製絨、艶金八伸、そして艶金化学繊維で染色整理を行っていました。グループ全体で仕事がどんどん減り、撤退を発表した2010年の時点では、起工場、艶金製絨(当時は艶金興業に吸収合併され、艶金興業の木曽川工場となっていた)と、艶金化学繊維の3工場のみになっていました。

   10年4月、同社は、起工場と木曽川工場で営んでいた本体の染色整理事業をソトーへ譲渡し、繊維事業から撤退すると発表した。ただ、その時点でも、子会社である艶金化学繊維をどうするかは決まっていなかった。

 本体には廃業する余力が残っていましたが、艶金化学繊維にはそれがありませんでした。企業自体を売却するか、倒産するかしか選択肢は残っていなかった。

 艶金興業は不動産賃貸業として存続しますが、そんな会社で、「何をするわけでもなく給料をもらうのはどうか」という私に対する“雰囲気”を感じていた中で、当時の明会長、大輔社長から、艶金化学繊維に行かないかと打診されました。ただ、「艶金興業が染色整理事業を継続することは、子会社を通じてでもあり得ない」と言われました。確かに、そんなことをすれば、解雇された艶金興業の社員が怒ってしまいます。だから、行くならば、艶金興業が持つ艶金化学繊維の株を買って、独立してほしいとのことでした。

 私としては、一宮工場やコスモクロスの閉鎖の仕事した後も、しかるべき策を講じれば再建できると思い、一生懸命やってきたわけです。それが、最後の数年間、大赤字になり、撤退することになってしまいました。だから、「もういい」と。染色の仕事はこりごりだと思いました。ある意味、燃え尽きていました。

(文中敬称略)