繊維街道 私の道中記/艶金 社長 墨 勇志 氏 ⑤

2020年03月27日(Fri曜日)

ここまでは思い描いた通り

墨は、従業員からの疑心暗鬼の目線を痛いほどに感じながら、どうすれば自身の覚悟を伝えることができるかを考えた。

 艶金興業が親会社だった時は、修繕が必要な設備があっても、それに要する費用が高いと、致命的でないなら様子を見るようにと指示していました。資金繰りを優先していたからです。社長に就任して以降私は、必要な修繕は全部やっていいと言い続けました。まずはやる気を示そうと思ったからです。

   そんなことの積み重ねが、墨を見る社員の目を徐々に変えていった。

 ラッキーだったのは、艶金化学繊維の初代社長が祖父の金次郎で、当時の社員が10人ぐらい残っていたことです。彼らが、初代社長の孫が立て直しに来たと歓迎してくれ、その空気が社内に広がりました。

   ラッキーなことは他にもあった。

 最も危惧していたのは、染料などの仕入れ先が、従来と同じ支払い条件で売ってくれるかどうかでした。それまで手形で払っていました。幸いなことにほとんどの仕入れ先が従来同様の条件で、取引を継続してくれました。

 大垣西濃信用金庫が、低金利での借り換えと、新規の融資を提案してくれたこともラッキーでした。それまでの主力は都銀だったのですが、新規の融資には応じないと言われていました。

   墨が社長に就任したのは2010年8月20日金曜日だった。週明けの23日付「繊維ニュース」は、「ニッケは20日、艶金化学繊維と業務提携すると発表した」と報じた。墨に対するニッケの援護射撃だった。

 艶金化学繊維は私が社長になる数年前から、ニッケと共同でモノ作りしていました。スポーツウエア用編み地の生機手配から染色整理までを当社が行い、販売をニッケが行うという形です。艶金興業が染色整理事業から撤退を発表した直後、艶金化学繊維の私の前の代表が、艶金化学繊維は事業を継続するので見捨てないでくださいとニッケに言いに行っていたんです。私も、社長になると決断した7月に、前の代表と一緒にニッケに行って、取引継続をお願いしました。すると、私の就任日に合わせる形で、業務提携することをニッケ側から発表すると言ってくれました。

   墨が社長に就任した10年時点の売上高は16億円だった。それが徐々に増え、現在は20億円弱になっている。黒字も維持し続けている。ここまでは墨が当初思い描いていた形で推移している。

 6、7年前から設備投資を開始しました。当社の特徴は、効率を無視したこだわりのモノ作りです。それを行うための特殊な小道具(設備)が当社の工場にはたくさんあります。それをさらに増やしてきました。今後は、染色機の更新も進めます。

   墨は、消費者の価値判断基準が劇的に変わりつつあり、環境に配慮したモノ作りがより重要になっていると感じている。

 当社の二酸化炭素排出量は、木材チップボイラーを導入しているので元々少ないのですが、出してはいます。その最たるものは電気。当社は2050年までに、使用する電力の全てを再生可能エネルギーにすることを宣言しました。とりあえず30年までに半分にします。

(文中敬称略、この項おわり)