繊維街道 私の道中記/蔭山 名誉会長 蔭山 照治 氏 ①

2020年06月22日(Mon曜日)

『罪と罰』に涙を流す

 ふとん地製造卸の蔭山(大阪市中央区)の創業者、蔭山照治氏は、羽毛ふとん用のプリント地の先駆けとして国内羽毛ふとん市場の形成に寄与し、さらに業界団体の長として、羽毛ふとんの品質基準の確立にも尽力した。その軌跡を紹介する。

               ◇

 93歳となった蔭山には、太平洋戦争の記憶が今も深く、鮮明に刻まれている。

 兵庫県立明石中学校(現明石高校)卒業後、16歳で志願して海軍甲種飛行予科練習生となりました。その後、沖縄海軍航空隊、指宿海軍航空隊、鹿屋第五航空艦隊司令部付搭乗員として勤務しました。

 指宿では米国のグラマン、ロッキードの戦闘機が何度も飛来し、機銃掃射や爆撃で多くの仲間が亡くなりました。土のうを積んだ間から機銃掃射する際、私は怖くて体が動かなかったのですが、グラマンに乗っていた操縦士の顔がとても幼かったことはよく覚えています。沖縄で索敵に出掛けた際には、青い海が眼下に広がり、周りには自分の飛行機1機しかなく、頼るものが自分しかいないと感じたことも記憶にあります。

 昭和20年(1945年)8月16日に、特攻隊として出撃する予定でしたが、15日に終戦を迎えて復員命令に変更になり、即日故郷に帰りました。私が所属した甲種飛行予科練習生十二期の同期生約750人のうち特攻隊員60人を含む230人が戦死しました。彼らを弔うことが生き残った私の大事な務めとなっています。

 18歳で復員すると、故郷の風景が一変していた。

 実家は、江戸期の1818年ごろに創業した米穀・薪炭(しんたん)卸商を営み、屋号は淡路屋・蔭山徳兵衛商店でした。住所は兵庫県明石市東本町で、創業時は米屋町と呼ばれていたそうです。播州平野・明石郡で収穫された米を菊正宗、白鶴酒造に納入し、明石港に店が面していたこともあり、船相手の小売商も営んでいました。

 私は、その五代目である蔭山雄助の次男として生まれました。比較的恵まれた家庭でしたが、昭和12年(1937年)に穀物の統制で商売ができなくなり、20年の空襲で家屋が全焼しました。

 復員して帰ると、9人だった所帯は祖父母と父母、長男が亡くなり、兄弟姉妹4人だけになっていました。姉の嫁ぎ先へ転がり込んで、亡くなった5人の位牌の代わりに、先祖代々の霊と墨書きした木札を自ら作り、ミカン箱の上に置いて拝みました。着るもの、食べるものがわずかでその冬をどう乗り越えられたのかよく覚えていません。

 軍国少年として教育された蔭山は、戦後の変化に戸惑う。

 終戦を境に、戦中・戦前の思想が一切否定され、民主主義に代わりました。私は考え方を転換できず、少しうつ状態になりました。

 一方、戦中に活字から離れていたためか読書熱が旺盛で、明治・大正文学、欧米文学、ロシア文学などを手当たり次第にむさぼるように読みふけりました。その中でドストエフスキーの『罪と罰』には涙を流すほど影響を受けました。言葉でうまく説明できませんが、自らの過去を捉え直すことができたように思います。

 戦争は、蔭山の経営思想にも大きな影響を与え、“誠実な経営”や“争わない経営”へとつながっていく。(文中敬称略)