繊維街道 私の道中記/蔭山 名誉会長 蔭山 照治 氏 ②

2020年06月23日(Tue曜日)

“蔭山”の名を残す

 18歳で復員した蔭山は2年後の1947年、日本物産交易(のちの合同商事)へ就職する。

 兄が戦時中に亡くなり、家業の淡路屋・蔭山徳兵衛商店を継ぐ立場になっていました。しかし、商売品の米が統制され、継ぎたい気持ちはあっても商売ができず、就職を選択しました。

 日本物産交易は姉の夫の紹介です。大阪・船場の繊維商社で、大阪合同紡績(のちに東洋紡と合併)の創業者である谷口房蔵氏の次男、敏夫氏が社長を務めていました。輸出繊維部と内地繊維部に分かれ、輸出繊維部には丸紅のインドネシアの駐在経験者が多く在籍していました。私は内地繊維部に配属されました。

 しかし、当時の繊維は国の統制で自由に商売ができず、代わりにフライパンと中華鍋を渡され、「どこでもいいから売ってこい」と上司に言われました。

 大阪近辺で買い手を探すも見つからず、地方ならと戦時中に滞在した鹿児島方面へ足を運びました。鹿児島市は全焼で売る先もなく、鹿屋へ赴きました。幸い、鹿屋市内は空襲を受けずに残っており、農協に飛び込むと、売り込みにくる人が少なかったのか、大量注文をいただきました。初めて成約した商談でした。

 その後、繊維の統制が解除され、シャツ地、ハンカチ地、ふとんカバー地などを扱いました。

 蔭山は、実績を重ねて取締役営業部長に就いた。一方で日増しに強くなっていった思いがある。

 商売のショの字も分からなかった私が、20年弱の間にさまざまな経験をさせてもらいました。ただ家業が続いていれば、私は7代目です。商売の中身は変わっても、蔭山の社名を残したいという気持ちが強くなっていました。

 66年、円満退社し、羽毛ふとんを販売する蔭山商店を翌年に立ち上げる。

 創業するに当たり、社是を定めるために福井県の永平寺で座禅を組みました。そこで生まれた言葉が「和と誠実」です。

 和とは争わず商売すること。誠実とはごまかさないことを含意しています。戦時に戦意が衰えないように、負けているのに善戦しているとした戦況に関する虚偽情報が、国を誤った方向に押し進めた面があります。経営も同様です。

 仏縁とは家族の死や、3割が亡くなった甲種飛行予科練習生の同期生の弔いでつながりが深くなりました。日本物産交易の時から出入りしていた東洋紡績の営業担当の前田貞男氏に、梅林寺(兵庫県宝塚市)の大島正圓住職を紹介してもらい、大島住職にはよく悩みや相談事を聞いてもらいました。

 大島住職に少林窟道場(大阪府高槻市)での座禅を勧められ、藤本隣道老師の下で只管打坐(しかんたざ)に励みました。藤本老師の弟子が井上哲也師で、永平寺「単頭」を務められていました。同師に「和と誠実」を揮毫(きごう)していただきました。

 その社是を掲げ、羽毛ふとん業界に関わっていく。

(文中敬称略)