繊維街道 私の道中記/蔭山 名誉会長 蔭山 照治 氏 ③

2020年06月24日(Wed曜日)

羽毛プリント地の先駆者に

1967年に設立した蔭山商店は、従業員一人での船出だった。 

大阪府八尾市の妻の実家に事務所を設けました。従業員は私だけでしたが、妻の八重子にも手伝ってもらいました。資本金80万円のうち、30万円は妻のへそくりです。経費節減のため、妻はずっと無給でした。妻には今も頭が上がりません。

 出資者には蔭山の弟のほか、ふとんメーカーのイワタも名を連ねた。

 合同商事にいた時、のちにイワタの社長になる岩田卓三氏が営業部に在籍していました。卓三氏は、江戸中期に創業した京都の岩田布団店を経営する岩田市兵衛氏の三男で、長女の婦美さんが日本物産交易(のちの合同商事)社長の谷口敏夫氏の夫人でした。その縁で市兵衛氏ともつながりがありました。

 市兵衛氏は先見の明がある経営者でした。「最高のふとんは羽毛。これからは羽毛ふとんの時代になる」。そう見通していました。当時、国内の羽毛ふとん市場は黎明期に差し掛かる前でしたが、その言葉に後押しされ、イワタ製の羽毛ふとんの販売を始めました。

 第一期の売り上げは2200万円、利益はわずか4千円でしたが、悲観はしていませんでした。

 蔭山は69年、新たに羽毛ふとん用生地の販売を始める。

 合同商事の在籍時に取引のあった兼松江商(現兼松)に生地の取引を持ち掛けると、羽毛が吹き出しにくい高密度織物が得意な大和紡績を紹介してくれました。大和紡績の80、100番手単糸の細番手糸を300本打ち込んだタイプライタークロス用生地を羽毛ふとん用として販売しました。

 その後、大和紡績が高密度織物をベースにダウンプルーフ加工(羽毛が吹き出さないように熱と圧力を加える)した広幅の羽毛ふとん用生地の生産を始めます。

 当時のダウンプルーフ加工地は、グレー(生成)の無地でプリントはありませんでした。欧州市場では、羽毛ふとんにプリントのカバーを付けるカバリング様式が主流でした。

 国内大手寝具製造卸は、欧州同様に柄物のカバリングに力を入れましたが、当社は多柄を展開する資金力がありません。柄物の和ぶとん地の更紗が普及する国内市場で受け入れられる土壌があると考えて、プリントのダウンプルーフ加工地の開発に挑戦しました。

 羽毛ふとん用プリント地がない理由には、高密度織物が水を吸わず漂白・染色が非常に難しい点もありました。その技術的課題に和歌山県にある和繊工業と取り組み、実現しました。

 柄は昭和西川の営業部長だった前田益男氏にアドバイスをいただいたことをはじめ、兼松江商の寝装部門意匠担当で日本図案家協会の顧問も務めた宮崎氏と欧州視察へ出向いて図案を収集し、デザイン性を追求しました。

 蔭山の見込み通り、ダウンプルーフ加工のプリント地は販売当初からヒットした。兼松江商、大和紡績と三社協定を結んで生産・販売体制も整え、飛躍していく。(文中敬称略)