繊維街道 私の道中記/蔭山 名誉会長 蔭山 照治 氏 ④

2020年06月25日(Thu曜日)

「デザインの蔭山」の異名をとる

1970年ごろに黎明(れいめい)期だった国内羽毛ふとん市場は、75年に100億円を突破し、その後も拡大基調が続く。蔭山はプリントしたダウンプルーフ加工のふとん地を強みに時流に乗る。

 1970年代のプリントのダウンプルーフ加工の羽毛ふとん地は、ほぼ当社の独壇場でした。73年のオイルショックで収益が悪化した伊藤萬が図案家に図案代を手形で支払うようになり、それを嫌った腕の立つ図案家が、現金で支払う当社に仕事を求めてきたこともデザイン力を高められた一因となりました。

 私はあの手この手と理由を付けて得意先をよく回りました。当社の展示会にきていただけることが分かっていても、開催前にあいさつに出向くなど、「また来るのかい」と言われるほど足しげく通いました。そうすることで、自分の肌感覚で市場状況が分かり、経営判断にも役立ちました。

 75年ごろに起きた合繊ふとんブームも追い風でした。羽毛ふとん地の販売がまだそれほどでもなかった時期に、東レ「FT」や帝人「スペリオール」などの羽毛ライクなポリエステル極細繊維を中わたに使用した合繊ふとんが大ヒットします。国内の大手製綿業者が、その合繊ふとんの生地に当社が開発した265本サテンを採用してくれたことで、3期連続大幅増収となったことも会社の発展へつながりました。

 蔭山商店は81年に蔭山に商号変更。業績は拡大基調が続いていたが、デザインの中核を担っていた従業員が大手紡績企業に転職してしまった。

 市場シェアも取られました。悔しさがありましたが、社是「和と誠実」に込めた争わない道を選びました。エネルギーを独自のデザイン追求へ費やしました。京都市立芸術大工芸科染織専攻卒で丸紅を経て蔭山に入社し、のちに社長を引き継ぐ長谷川大二氏らがデザインの向上を追求しました。

 そのおかげで、ライバルと争わずに済むほどのデザイン力がついたと思います。長谷川社長(現最高顧問)の下でもデザインに注力し、「デザインの蔭山」と呼ばれるようになりました。

 羽毛ふとん市場は、83年に2142億円に拡大。蔭山の年商も91年に66億円にまでになる。その傍ら蔭山は、羽毛ふとんの理解を深める活動にも力を注いだ。

 黎明期には羽毛ふとんの知識が業界でも不十分でした。74年に当社主催で得意先などを対象とした羽毛ふとん地研修会を開き、大和紡績の舞鶴工場の高密度織物の現場を見学しました。その後も工場見学や海外視察などを毎年行い、20年間続けました。

 羽毛ふとん地団体の組織化にも尽力し、84年設立の羽毛ふとん地流通懇話会の会長を務める。

 日本羽毛寝具製造業協同組合の草田善一郎理事長からの要請でした。羽毛原料の主な輸入先は当初、欧州、台湾でしたが、72年の日中国交正常化を経て80年代に中国から羽毛が大量に入るようになり、価格下落や品質不良などで市場が混乱します。正常な市場作りのため、日本羽毛輸入協会を含めた3団体で取り組みました。草田理事長の指導で羽毛ふとん地の品質基準作りも行われました。生地は当社の基準がベースになり、今の基準が整備されています。

 羽毛ふとん地流通懇話会は、90年に羽毛ふとん地流通協会、2000年にサラサ更友会と統合してふとん地流通協会となる。蔭山はいずれも初代会長を務め、業界発展に尽くした。(文中敬称略)