繊維街道 私の道中記/オーダースーツSADA 社長 佐田 展隆 氏①

2020年07月27日(Mon曜日)

オーダー専門店が刻んだ100年

 2023年に創業100周年の節目を迎えるオーダースーツSADA(東京都千代田区)。オーダースーツ専門の製造・小売として着実に業容を拡大しているが、会社の存続が危ぶまれる事態は幾つもあった。その危機を乗り越えたのは変革だった。現社長の佐田展隆氏は、祖父、そして父の思いを受け継ぎ、同社を次代に導く。

                 ◇

  東京で糸や生地に関連する商品を呉服店に卸していた米川商店。その番頭を務めていたのが、佐田の曽祖父・定三だ。手広く商売を行っていたが、関東大震災を機に店を畳む話が持ち上がる。定三は店の存続を店主に訴え、のれん分けという形で許される。

 それがオーダースーツSADAの起源です。屋号は「米川商店神田店」で、東京・神田に店を構えます。当初は和装が中心でしたが、洋装も増え、ボタンやウールの生地をはじめ、“糸偏”に関わる商品は何でも取り扱うようになります。曽祖父は尾州産地や北陸産地につながりを持っていたので対応できたようです。

 商売は徐々に大きくなりますが、第2次世界大戦の東京大空襲で店が焼け落ちてしまいます。家の者は経堂(現在の東京都世田谷区)に疎開していたので全員が無事でした。ただ、東京は本当に大変だったようで、祖母は「神田の辺りは3日3晩燃え続けていた」とよく話していました。

  戦後、至る所が焼け野原だったが、店の再開を決意する。経堂から神田に戻るが、将来を考えると店を支える新しい力が欠かせなかった。定三は満州から朝鮮半島を経て復員した男性を後継者に指名する。

 白羽の矢が立ったのが祖父の茂司です。通信員だった祖父は帰還後、ラジオの修理で食いつないでいました。ラジオ修理ができた帰還兵は国の政策で一カ所に集められたのですが、そうして出来上がったのが秋葉原の電気街です。とにかくそこで曽祖父に見初められ、佐田家に入ります。

  米川商店神田店再開の際、茂司はこれからは和装の時代ではなく、洋装が当たり前になると強く主張する。定三もこの意見に反対せず、取り扱い商材を洋装関連主体に切り替える。これが当たる。

 あらゆる物が不足し、生地を仕入れること自体が大変でした。普通であれば手元に現金がないと分けてもらえなかったのですが、尾州産地や北陸産地に古くから足しげく通い、多くの工場から信頼を勝ち得ていた曽祖父の顔で手に入れることができたようです。

 盗まれる恐れがあったため、人任せではなく、自らの手で持ち帰る必要がありました。汽車はすし詰めの状態で、生地を屋根にくくり付け、自分たちも屋根の上に乗り、何時間もかけて東京に戻っていました。持って帰った生地は飛ぶように売れたと聞いています。

  最も売れたのが羅紗(らしゃ)。戦地から帰還し、テーラーを開業する人が多かったことが追い風だった。茂司はその勢いを受けて別会社の羅紗卸「佐田羅紗店」を設立する。

(文中敬称略)