繊維街道 私の道中記/オーダースーツSADA 社長 佐田 展隆 氏②

2020年07月28日(Tue曜日)

テーラーの不買運動

 佐田は「自分の考え方のベースは祖父の茂司にある」と強調する。子供の頃は二世帯住宅に住み、よく茂司の居住スペースに遊びに行った。酔うと戦争中の出来事や仕事の苦労を話してくれたという。

 米川商店神田店は各種付属品を取り扱い、羅紗(らしゃ)卸の佐田羅紗店はスーツ用生地の販売に特化していました。正確な文言は分かりませんが、「フゾクハ米川 ラシャハ佐田」というキャッチコピーを入れたタオルを作製して、販促物として配っていました。

 両方の店を切り盛りしていたのが祖父です。秋田県の出身だったため、東北(秋田)訛りはいつまでたっても抜けなかった祖父ですが、体力自慢でとにかく走り回っていたらしいです。「ひいおじいさんが信用してくれたから頑張れた」と曽祖父への感謝の言葉を聞いたことがあります。

  業容は拡大し、地方からの集団就職の受け入れもあって従業員は増える。羅紗卸業に専念するため、米川商店神田店は当時の番頭にのれん分けし、経営権も番頭に譲った。

 羅紗の仕入れは積極的に行っていたのですが、一方で販売は滞り始めます。祖父が行き着いたのは「テーラーの仕事が遅いからだ。もっと早く縫えば生地も売れるはず」という考えでした。そこで自ら縫製業に進出します。廃校の体育館を活用し、縫製スタッフを集めて設立したのが佐田被服工業です。

 そのせいで試練が訪れます。縫うことが自分たちの価値と自負していたテーラーは多く、「羅紗卸が価値を奪いにきた」といううわさが流れ、「佐田羅紗店からは生地を買わない」という不買同盟が結ばれました。祖父はそれでもテーラーに頭を下げなかったのですが、祖母によると倒産も覚悟していたようです。

  東京都内では不買運動に苦しめられ、地方のテーラーへの生地販売でしのぐ。いつしか東京のテーラーから理解を得られるようになり、縫製業は軌道に乗る。事業は佐田の父・久仁雄に引き継がれる。

 祖父と同じく、父も婿養子です。国立大学を卒業したインテリで、大手ビールメーカーに勤めていました。中学しか卒業しておらず、裸一貫で会社を引っ張ってきた祖父とは対照的な存在でした。そのためなのか、2人はよく言い争いをしていました。

 でも父は祖父のいないところでは「おじいさんはすごい人だ。あの体力には絶対にかなわない」と話していました。祖父も私の前では「銀行などとの交渉で、久仁雄には助けてもらっている」と語っていました。結局、互いに認め合っていたのでしょう。父の意見に、祖父が折れることも多かったようです。

  茂司、久仁雄と2代続けて婿養子を取った佐田家に1974年、男児が誕生する。展隆だ。その後弟2人も生まれる。いとこも男2人。父からは「長子相続である必要はない。誰かが継いでくれればいい」と言われていた。

(文中敬称略)