繊維街道 私の道中記/オーダースーツSADA 社長 佐田 展隆 氏③

2020年07月29日(Wed曜日)

実印を押すしかなかった

 父は本当に怖い存在でした。常々「モンゴルでは末子相続。長子にはこだわっていない」と強調していましたが、祖父は「(後継ぎには)お前が選ばれればいいと思っている」と言ってくれました。祖父のその言葉もあって、子供の頃は「父に指名されなければ駄目だ」と感じていました。

  祖父・茂司は厳しかったが、甘えられる存在。一方、父・久仁雄に対しては認められたいという思いが強かった。父と同じ国立大学を目指したが、現役では不合格。1浪後も合格通知は届かなかった。経験したことのない挫折を味わった。

 2年連続志望校に落ちた時、祖父と祖母は慰めてくれたのですが、父は無言。責められることはありませんでした。別の大学へ進む道もあったのですが、「もう一度受験させてほしい」と父に頼むと、そこで初めて「浪人でどれぐらいの金がかかるのか分かっているのか」と叱られました。

 心を入れ替えたかはともかく、翌年に晴れて合格し、4年間の大学生活を満喫します。就職氷河期でしたが、合繊メーカーと自動車メーカーから内定をもらうことができました。結果として合繊メーカーに就職するのですが、父に選ばれて会社に戻るのであれば糸偏の会社が良いと考えたからです。

  いつかは「帰ってこい」と言われる日が来ると信じていたが、少なくとも10年は合繊メーカーで頑張るつもりでいた。だが、実際に在籍したのは4年半。それほど会社は追い詰められていた。

 祖父は既に他界し、当時の父は借金返済の期日を伸ばしてもらうために銀行通いの日々です。「期日を変更してほしければ後継者を決めろ」と迫られたらしく、それで父は私に声を掛けます。でも会社は本当にどん底で「帰ってこいとは言えない。自分で決めてくれ。ただし、お前がいないとつぶれる」と言われました。ほとんど脅しです。

  会社の業績が落ち込んだのは、メインの卸先であった百貨店の破綻が要因で、売り上げの多くがなくなる。年商22億円に対して、25億円の有利子負債。倒産していないのが不思議だった。

 父もさまざまな手を打っていました。国内に三つあった工場のうち、一つを閉じ、もう一つの工場はリストラクチャリングを実施、残りの工場は物流センターにします。中国でスーツを縫うという選択をしたのですが、テーラーには「中国で作ったスーツが売れるはずがない」と鼻で笑われました。

 会社にとって一つの賭けでしたが、現場にも諦めムードが漂っていました。「中国の工場が稼働すると黒字化するので返済を待ってほしい」と銀行に頼んでいたようですが、時間稼ぎの面もありました。私は経理担当の立場で実家に戻るのですが、最初の仕事は各金融機関を回って連帯保証人として実印を押すことでした。

  テーラーを説得したが、中国製のスーツを販売できる人材はいなかった。根本的な問題は「営業」にあると感じた佐田は、父に営業全般を任せてほしいと直訴する。

(文中敬称略)