繊維街道 私の道中記/松藤テリー 相談役 松藤秀 氏(1)

2020年10月19日(Mon曜日)

スイカで家業を改革

 「現状に一段落つくと何か新しいことをやりたくなる――」と泉州タオル産地のタオル製造、松藤テリーの松藤秀相談役は話す。家庭の事情によって、高校1年生で学業を諦めた。家業の農業の改革で成果を上げた後にサラリーマンを経験、その後にタオル作りの道に入った。さまざまな分野での紆余曲折はあったが、一貫して持ち続けていたのは、探求心と向上心。81歳になった今も続く松藤相談役の繊維街道をたどる。

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  松藤 秀は1939(昭和14)年、熊取村(現大阪府熊取町)の農家に長男として生まれた。

 今につながる人生の一大転機は55(昭和30)年、高校1年生を終える頃、16歳の時です。かねてから病を患っていた母が亡くなり、農業をやるために高校をやめ、家に入ってほしいと父から請われました。

 いつかは家業を継ぐ気でいたので、農業高校に通っていました。担任の先生から「君は開校以来の優秀な成績で入学したんだよ」と言われたことがあり、これは期待に応えるために頑張らないと――と勉学に励んでいた時期でした。

 名残り惜しかったのですが、私は5人きょうだいの長男です。まだ幼いきょうだいのためにも家に入り、父を助ける覚悟を決めました。

 当時、熊取周辺の農家は表作に米を、裏作に特産のタマネギを栽培するのが一般的でした。

 農業に従事するうち、米とタマネギでは将来は明るくない、現金収入が多く得られる付加価値の高いものを作るべきだと考え始めました。

 考えた末、スイカの栽培を始めました。ただ、スイカは連作ができず、広い栽培面積が必要です。所有していた農地の3分の1をスイカ栽培に思い切って充てました。不安もありましたが、約2年をかけ、スイカは結果的に大当たりし、かなりの現金収入につながりました。

 スイカ栽培を進めるうちに農作業に機械を導入すれば、合理化が大きく進むとも考えていました。これは農業高校時代に経験した実習で、耕運機などの農業機械に触れていた影響があったと思います。

 スイカで得た収入で、中古の耕運機を買いました。畑を耕す時間は飛躍的に短くなり、生まれた時間を今度は養鶏に充てました。ニワトリの卵を近隣に販売することで、さらに現金収入は増えました。

  現状に甘んじず、常に商品の高付加価値化を意識し、将来を見越して、事業のアップデートを繰り返す。今につながる秀の行動原理がこの頃から確立されてくる。

 農業が軌道に乗ってくると、家族の生活を守らなくては、という束縛も緩んだように感じました。日々の仕事に不満はなかったのですが、「自分が生かされる道が他にもあるのでは」と考えることも増え、農業から“脱皮”する機会をうかがうようになりました。

  61(昭和36)年、家業をきょうだいらに託し、勤め人になる決意をする。家業の改革を成し遂げたことで年齢を勘違いしてしまうかもしれないが、この時、まだ22歳である。

(文中敬称略)