繊維街道 私の道中記  澤田会長   澤田 隆生 氏(2)

2020年11月17日(Tue曜日)

事業基盤を作った「サネル」

 独立して澤田を設立した直後、予想外の危機が澤田を襲う。

 会社設立が1969年7月でしたが、いきなり10月に大口取引先が倒産し、1880万円もの未収金を抱えてしまいます。当社は資本金が500万円でしたから、「澤田君もかわいそうに。独立したばかりなのに倒産するのか」と言う人もいたほど。ただ、当時はまだ会社を数字以外の部分で評価してくれる雰囲気が業界に残っていました。周りの人に助けられながら、なんとか2年かけて処理しました。大赤字で終わった第1期の決算書は今も大切に保管しています。

   マイナスからのスタートとなった澤田を救ったのが糸の開発だった。

 三菱レイヨン(現・三菱ケミカル)からアクリル短繊維「ボンネル」で繊度8デニール(8・9デシデックス)の特殊原綿ができたという話がありました。これで糸を作れば素晴らしいものができると直感しました。ただ、実際の糸作りは難しく、紡績の現場にも何度も足を運んで開発に取り組みます。

 当時、新潟や関東の産地のセーターは6ゲージ、8ゲージ、10ゲージと偶数ゲージが普通なのですが、不思議なことに泉大津のセーターは7ゲージを中心に奇数ゲージでした。そこで奇数ゲージに合わせて23番手(毛番手)という端番手を作ったところ、これが当たった。編み立てると驚くほどウールライクな膨らみが出たのです。72年のことです。「サワダ」と「ボンネル」を合わせて「サネル」と名付けました。

   サネルは発売と同時に爆発的に売れた。ところが思わぬところから〝待った”がかかる。

 原綿を供給していた三菱レイヨンの上層部から「なぜ泉大津の小さな糸商にモノポリーを認めているのだ」という不満の声が上がったそうです。73年ですからオイルショックでモノ不足の時代でしたから。ただ、こちらからすれば開発の経緯もあって、サネル向けに原綿を供給してもらうのは当然だという思いがあります。そこで三菱レイヨンに乗り込んで直談判しました。交渉の結果、月50㌧、6カ月で300㌧が最小ロットで、これだけの量が売れるならモノポリーを認めるということになります。

   ところが、なかなか目標の販売量に達しない。在庫がどんどんと積み上がる。

 三菱レイヨンの担当者も心配していましたが、不安はありませんでした。セーターの糸というのは、御堂筋のイチョウが色付き始め、泉大津でだんじりの太鼓の練習の音が聞こえてくる頃に動くものだからです。そして実際にそうなりました。一気に糸が売れ始めた。結局、サネルは72年から75年までの4年間で2千㌧を売り上げる大ヒット商品になります。このヒットで事業の基盤が固まると同時に、普通の糸商のように「仕入れて売る」のではなく、「作って売る」という当社のモットーが確立します。

   サネルのヒットによって業界での澤田の知名度も高まっていった。

(文中敬称略)