維街街道 私の道中記 日本絨氈社長 池﨑博之 氏(1)

2021年01月25日(Mon曜日)

「大志を抱け」を胸に

 カーペット製造の日本絨氈(堺市)の池﨑博之社長が胸に刻んでいる言葉の一つに「チェンジウェーブを捉えよ」がある。米国の大手床材メーカーのショーインダストリーの創業者で、78歳で再起業して世界一のカーペット会社を目指しているボブ・ショーの名言だ。自らも実践し、潮目を捉えてタフトカーペットメーカーの雄に成長した軌跡を紹介する。

              ◇

  池﨑にとってカーペットは、幼少期から身近な存在だった。

 父の池﨑繁雄が社長だった前身の金剛パイル織物の現場が、私の遊び場のようなものでした。カーペットを広げて裏に糊(のり)を付け、天日干しで乾燥させていたのですが、雨が降り、濡れないように急いで担いで移動させる光景をよく覚えています。

 小学生の時には工場の工作機で下敷きを使った扇風機を作り、大阪府知事賞を受賞したこともあります。高校・大学時代には、アルバイトで現場に入り、夜の10時ごろまでカーペットのカットや出荷を手伝いました。その経験でカットが今でも得意です。

  モノ作りに慣れ親しんでいた池埼は、北海道大学工学部機械工学科に進学。卒業後、商社の兼松江商に入社する。

 クラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ、大志を抱け)」、の言葉に引かれていました。北大出身者で国際連盟事務局次長として国際間の懸け橋となった新渡戸稲造博士に憧れていたこともあり、世界を股にかけた仕事をしたいとの思いがありました。

 当時、商社は文系出身者が多く、理系は珍しかったと思います。電子軽機械本部に配属され、半導体を扱いました。米国のIBMに追い付け、追い越せと日本企業に勢いがあった時期で、兼松江商グループもその一角を占めていました。

 半導体市場は活気がありました。今後も大きなビジネスチャンスがあると見込んで、独立して起業することも考えました。

  入社して3年目の25歳の時、父の繁雄が体調を崩す。

 父から「帰ってきてくれないか」と言われました。それまで一度も言われたことはなく、会社を継ぐ気持ちははっきりとはありませんでした。しかし、潜在意識の中ではあったと思います。考えた末に戻ることを決めました。

 当社のルーツは、曾祖父の村田繁蔵が1874年に大阪府内で始めた織物業です。その後祖父の村田伊三郎がメリヤス・堺緞通取り扱い業などにも手を広げました。伊三郎の長男で、結婚して池﨑姓を名乗っていた父の繁雄が中心となり、1951年に村田織物工場を設立しました。

 椅子張り地、モケット、自動車用天井材を製織していましたが、終戦後に進駐軍の将校の家に敷かれたじゅうたんを見た父には、日本人にもじゅうたんのある生活が必要だとの思いがあったと聞いています。55年にウィルトン織機を導入してカーペット生産に乗り出します。

 自社企画のウィルトンカーペットを収録した見本帳の「ダイヤ」、ウールマーク付のウィルトンカーペット見本帳「ミリオン」がヒットし、協力工場を含めて織機百台体制で年産2百万平方㍍近くまで拡大します。私が入社した時も、工事用ウィルトンカーペットの国内生産量でナンバーワン企業でした。

  その成功体験のある中で、入社間もない池﨑が変革を促す一石を投じる。

(文中敬称略)