維街街道 私の道中記 日本絨氈社長 池﨑博之 氏(2)

2021年01月26日(Tue曜日)

「お前が責任を持ってやれ」

 池﨑が1978年に入社して間もなく、現本社(堺市)の堺高砂工場の建設計画が持ち上がる。

 主力だったウィルトンカーペットの工場を建設する計画でした。ウィルトンカーペットの生産量が国内トップだった同分野での競争力を高めるための設備投資でした。しかし、カーペット市場ではタフトカーペットが台頭し、ウィルトンカーペットが浸食される兆候がありました。

 ウィルトンカーペット織機とタフト機では生産スピードが大きく違います。ウィルトン織機は1分間に50回転前後ですが、タフト機は同千回転です。ウール使いのタフトカーペットも良いものが出始めていました。

 「ウィルトンカーペットへの投資はえらいことになります。タフトカーペットの工場にした方が良い」と父に進言しました。父は会社の行く末を熟考したでしょうが、「そうするか。タフトのことはよう分からんから、お前が責任を持ってやれ」と言ってくれました。私が言うのも何ですが、父は大物でした。ウィルトンカーペットの成功体験がある中で、入社してわずかな私の意見を聞き入れて決断することはなかなかできることではありません。

 社員やほかの役員には抵抗感も大きかったと思います。入社して間もなく、信頼感がない中で、本当にできるのかという思いがあったでしょう。タフト機を入れる前にウィルトン織機より多色使いのできるアキスミンスター織機を子会社の大分絨氈に導入したのですが、「息子に遊び道具を与えてあげた」くらいに見ていたのかもしれません。

  社内の抵抗感を感じつつも、父の決断を得てタフト工場建設に奔走する。

 役員と欧州や米国の5カ国約10社のタフト関連メーカーに足を運んで情報収集しました。最終的に国内メーカーのタフト機2台を高砂工場に導入してスタートしました。

 モノ作り、販売の両面で苦労が続きました。ウィルトンのモノ作りを追求してきたベテラン従業員もタフト機は素人です。ノウハウがない中で、カーペットに筋が入りB品が出るなどして試行錯誤が続き、生産が安定するまで5年ほどかかりました。

 弟で現専務の隆啓と共に販路開拓にも走り回りました。なかなか成果が上がりませんでしたが、何とか軌道に乗せようと、焦りを感じている暇はありませんでした。

  日本カーペット工業組合企業のタフトカーペット生産量は78年の6千万平方台㍍から、88年には9千万平方㍍台まで増加。日本絨氈も波に乗って販売量を拡大する。

 運が良かったことも事実です。タフトカーペットの用途が広がっていたタイミングでした。自動車のオプションマット、ホットカーペット、人工芝、タイルカーペットなどへ広がりました。タフトカーペットの後発だった当社が参入できる余地がありました。

  タフトカーペット事業が軌道に乗りつつある中、父の繁雄が病に倒れる。

(文中敬称略)