維街街道 私の道中記   維研社長  町田正浩 氏 (1)

2021年02月16日(Tue曜日)

1位を抜こうとしたら……

 愛知県江南市は、カーテン用ジャカード織物の産地として知られる。しかし、オーダーカーテン市場の縮小、既成カーテンを中心とする中国からの輸入増の中で、同産地のカーテン関連企業は減り続けた。この逆境に立ち向かい、産地の灯を守ることに挑んだ男がいる。維研の町田正浩社長(63)だ。

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   町田には姉と、4人の弟、1人の妹がいる。大家族だ。このことが、町田の父である武、そして町田の人生にも大きな影響を与える。

 父は、服地問屋だった名古屋市の加名市(2014年に倒産)で、オーダーカーテン事業を立ち上げ、常務を務めていました。しかし、子供が7人に増えたため、勤め人のままでは養っていくことが難しいと判断し、同社を円満退社して、維研を設立。加名市と競合しないように、一つ川上の、ジャカード・カーテン地の産元業を始めました。1968年のことです。私は小学校5年生でした。名古屋市の自宅の一室で仕事を開始し、その後、10坪ほどの事務所を庭に設けました。

   町田は運動が得意だった。中学生になると、バスケットボール部に入る。

 ポジションはゴール下です。体格がしっかりしていたので、自分より背が高い相手にも負けない自信がありました。地区の陸上大会に、部員が少ない陸上部の助っ人として駆り出されたこともあります。1500㍍走に参加して区の新記録を作りました。

 ところが、卒業間際に腰椎分離症になってしまいます。バスケを断念し、高校では陸上部に入りました。腰をコルセットでかばいながら練習を重ね、400㍍走で愛知県4位になりました。400㍍×4のリレーでは愛知県の新記録を作ります。それで、400×4でインターハイ予選東海大会に進みました。

 私たちは優勝候補でした。私は2走担当です。8人中5位でバトンを受け、ごぼう抜きで2位になり、1位の選手を抜こうとした時に、その選手の肘が当たって私のバトンが飛んでしまいます。優勝候補だったのに、私のせいでインターハイに出場できない。仲間に申し訳なくて、泣き崩れてしまいました。2週間ぐらいは学校へも行けず、家でふさぎ込んでいました。好事魔多しを身をもって体験しました。

   慶応義塾大学の商学部に進んだ町田は、今度はラグビーに挑戦する。

 準体育会のラグビー部に入りました。それまでは、新しい種目に挑戦してもすぐにレギュラーになれたのですが、ラグビーはさすがに難しかった。立教大との練習試合で、タックルに行って右足首を脱臼骨折し、救急車で運ばれたこともあります。ただ、試合で右ウイングを任され、独走でトライを決めた時の快感は今でも忘れられません。

(文中敬称略)