維街街道 私の道中記   維研社長  町田正浩 氏 (2)

2021年02月17日(Wed曜日)

長男としての責任感

 町田が大学4年生になった1979年、父の武は、72年に建設した現本社の近くに390坪の土地を買い、本社工場と倉庫を建設した。これにより、借金が大きく膨らむ。そのタイミングで、第2次オイルショックが発生した。「維研は倒産する」。そんなうわさが産地内を駆け巡る。

 中学生の頃から、鉄鋼、造船、そして繊維は日本の三大構造不況業種だと授業で教えられてきました。なので、繊維ではなく、不動産の会社に就職したいと思っていました。しかし、「お父さんは、第2次オイルショクで夜も眠れず、うなされてばかりで、いつ自殺するかも分からない」と母が会うたびに脅す。7人兄弟、9人家族。しかも一番下の弟はまだ小学6年生。長男として、皆が路頭に迷うことは何としてでも防がないといけない。そんな責任感だけで、家業を継ぐことにしました。

  家業を継ぐことを決意した町田はまず、田村駒に入社する。武が、町田を入社させてほしいと同社に頼んだ。5年間勤める予定だった。

 大阪・本町の本社での研修後、東京の合繊編み地販売部門に配属されました。第2次オイルショックの余波が残る厳しい時代だったからでしょうか、入社1年目から、デリバリーではなく、営業に出してもらえました。アパレルの住所や電話番号を名鑑で調べてアポを取ります。ファッション雑誌のコピーと生地見本を張った手製のマップを持って提案に行きます。そして、ベテランのデザイナーさんの前で冷や汗をかきながら説明しました。当時は「コム・デ・ギャルソン」などのDCブランドがブームになり始めた時期です。これらのブランドに提案し、新規顧客になっていただきました。

 昼間は営業し、夕方になると帰社してさまざまな伝票を手書きし、計算室に回します。おかげで、伝票の仕組みも短期間で学ぶことができました。

 合繊編み地を扱う部門でしたが、合繊でしか作っていなかったジャカードレースを、当時はやっていた綿・麻で作ったこともあります。これは非常に売れました。レースの生機在庫を処分しやすくするために、仕入れ先に教えていただきながら、ラメを混ぜたフロッキー加工を施したり、カラミに顔料プリントしたりもしました。

 いろいろなことを教えていただいたお客さま、仕入れ先さま、先輩方には今でも感謝しています。

  田村駒に入社して丸3年になろうとする頃、武から戻ってくるようにとの指示が届く。営業マンが相次いで退社し、会社が大変なことになっているという。

 最低でも5年は田村駒さんで勉強させていただこうと思っていたのでとても残念で、かつご迷惑をお掛けしましたが、戻ることにしました。

 戻ってみると確かにとても厳しい状況でした。私は月末になると毎月、新幹線で大阪のお客のところに行き、経理課で手形をもらってとんぼ返りし、銀行で手形割引して支払いに回しました。自転車操業のような状態でした。

 (文中敬称略)