維街街道 私の道中記   維研社長  町田正浩 氏 (3)

2021年02月18日(Thu曜日)

社長になったが財務は……

 町田は、事務所の裏の開発工場にあるシャトル織機でジャカードカーテン地の見本作りに取り組む。

 シャトル織機なので、少しずつしか織れません。じれったいのですが、面白くもありました。大学を卒業するまで生地のデザインとは無縁でしたが、田村駒さんで生地作りを勉強させていただいたことが役立ちました。

  その後営業も担当し、新規開拓や既存顧客との関係強化に努める。そして1994年、社長に就任した。

 父が会長になり、私が社長に就任しました。36歳の時です。ただ、会社を私に譲ったという認識は父にはありませんでした。その後も、実質的な社長として振る舞っていました。経理面には口出しせずに、売ってくればいいという感じです。肩書が変わっただけで、実体は前と同じでした。ただ、借金の連帯保証人は私に変わりました。

 よくある話ですが、創業者と2代目の衝突が何度もありました。オフコンをパソコンに切り替えてインターネット環境を整えたのですが、父は「コンピューターなどを入れると事務処理がよけい増える」と反対しました。高速織機を導入しようとした時も、「そんな機械でいい商品は織れない」と言っていました。30歳の年の差があり、ジェネレーションギャップが大きく、何をするにしても意見が激しく衝突しました。

  町田が社長に就任した94年以降もしばらくの間は、売上高が増え続けた。97年度には20億円に達する。しかしカーテン業界を取り巻く環境は既に悪化に転じていた。

 住宅着工戸数は163万戸から90万戸台へ毎年下がり続け、消費増税前の駆け込み需要の反動、そして中国からの既製カーテン輸入の激増、価格破壊などにより、売上高は97年度をピークに減少に転じます。同年度の売上高のうち8億円強は既製カーテンだったのですが、それがほぼゼロになりました。

  その頃、会長の武は、別会社にしていた工場以外を町田に任せ、悠々自適の生活を送っていた。ただし、会社の財布は握り続ける。財務関連の帳簿類を町田に見せることはなかった。町田は、借金がどの程度減っているかも分からずにいた。

 社員は苦しんでいたのですが、会長は増資も設備の更新もせず、ベンツやセルシオに乗り、50万円のスーツを仕立てたりしていました。

 会社を取り巻く環境の厳しさを全く理解できていないと思ったので、2001年に愛知県の江南商工会議所繊維部会の中国視察に参加してもらいました。中国の追い上げのすさまじさを見て、現実を理解してもらおうと思ったのです。

 何百人もの縫製工員がいる既製カーテン工場を中国で目の当たりにし、相当ショックだったようです。ただ、その年にすい臓がんが発覚し、半年後に亡くなってしまいました。(文中敬称略)