繊維街道 私の道中記 豊和会長  田代豊雄 氏 (1)

2021年03月22日(Mon曜日)

代々繊維に携わり、受け継ぐ

 波乱万丈の変化を遂げてきた日本のジーンズ業界。それを洗い加工技術の革新で支えてきた豊和(岡山県倉敷市)の田代豊雄会長(79)。風雲児は、活路をどう切り開いてきたのか。

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   田代家は、代々繊維に携わってきた。起源は江戸時代。真田紐(ひも)の手織りから始まった。

 戦国大名の毛利家の家臣、田代家から嫁を迎え、田代姓を受けたと聞いています。倉敷市児島の干拓による新田開発を受けて、塩害に強い綿栽培を始め、真田紐などを織って由加山蓮台寺の参拝者に売っていたようです。当時の屋号は「木屋」(きや)でした。その屋号は今、長男の智彦が立ち上げた住宅販売会社が受け継いでいます。

   田代家が製織を始めたのは明治初め。曾祖父の信次郎が「児島で初めて」織機を導入した。その仕事で、祖父の好太郎まで財をなした。だが、父の新一の代に、戦後の農地改革で資金も土地も没収される。田代が生まれたのは、そうした厳しい時代だった。

 終戦の頃が、家として一番貧乏な時期だったと思います。父はかろうじて残っていた土地で資金を作り、田代織布として学生服や作業服向けに綿織物を作り始めます。

 厳しいながらも事業は軌道に乗りました。工場が幼少期の私の遊び場になり、歯車を板切れに付けて、坂道で転がして遊んだりしていました。

 繊維の基本は、県立倉敷工業高校の当時の繊維科で学びました。卒業後は家業を継ぐ予定でしたが、いったん、兵庫県の甲子園近くで親戚が始めたスーパーに丁稚に行きました。そこでの仕入れや営業の仕方は非常に勉強になりました。後の事業運営にも大いに役立っています。

   ところが4年後に家に戻ると、会社が傾き始めていた。1955年ごろから学生服地分野などで合繊が台頭し、家業が立ち行かなくなっていた。

 売掛金の回収が滞っていました。スーパー時代に培った知識で帳簿を見ると、資金効率も良くない。廃業すべきだと思いました。父はそれをかたくなに受け入れませんでしたが、辛抱強く説得し、64年に廃業しました。

 ただ、繊維に関わり、人助けもしてきた祖父や父の背中を見てきました。だから今も、報恩感謝というか、人のつながりを大事にしていますね。

   こうした姿勢を受け継ぎ、自身の名前の一字「豊」と合わせて「豊和」を立ち上げることになる。

(文中敬称略)