メセナの元祖 大原孫三郎/「救貧よりも防貧を」

2000年04月05日 (水曜日)

 クラボウの二代目社長である大原孫三郎氏(一八八〇~一九四三年)は、日本における企業メセナの元祖といえる。

 屈指の大地主の息子に生まれ、東京専門学校(早稲田大学)時代は豪遊ざんまい。今のお金で五千万円もの借金を作ったほどだ。郷里に連れ戻された後、クリスチャンで岡山孤児院の院長であった石井十次氏と出会う。これが、氏の運命を変えた。社会事業に開眼したのである。

 社会救済として孤児院を経営した石井十次氏を、大原氏は「聖書の精神をこの世で行おうとした」(大原孫三郎傳)と理解していた。それゆえ、その死後、石井氏の遺志を継ぎ、大阪・天王寺に「石井記念愛染園」を開設した。

 この孤児院の経営を考慮しているとき、「救貧よりも防貧の方が、より重大事であり、普遍的な問題」と考えた。困窮の根源を防止することが、救貧以上に効果が大きいと思い至ったのである。

 しかし、当時の日本ではまだ防貧の研究が行われておらず、この社会問題を科学的に研究する研究所を作ることが急務と判断。「大原社会問題研究所」(現法政大学大原社会問題研究所)を設立する。さらに同研究所の労働衛生部門を分離独立させ、「労働科学研究所」(現財団法人労働科学研究所)として深夜作業・婦人および年少者の労働問題について研究する。

 また、農業技術の進歩のため、「大原農業研究所」、東洋一の理想的な病院を目指した「倉敷中央病院」を開く。文化の面でも画家・児島虎次郎氏の遺志を生かして、日本の西洋近代美術館第一号となる「大原美術館」を開設した。

 こうした社会理想を追求する精神は、社会事業だけでなく、自社の事業経営にもいかんなく発揮される。

 職場環境の向上もその一つだ。飯場制度(当時は業者が炊事、従業員採用、日用雑貨の販売をしていたが、ピンはねもしていた)を廃止して、業務を会社組織に移す。寄宿舎も長棟式たこ部屋ではなく、分散式寄宿舎を建設。「女工哀史」が出版される十年以上も前から労働環境の整備を進めたのだから、驚きである。

 従業員教育にも熱心で、大隈重信など一流の講師を招く。その後、一般公開の形で「倉敷教育懇話会」とする。また、紡績工場内に職工教育部を設け、社内学校へと発展させた。

 「倉紡の人道主義が温情主義のように伝えられているが、これは誤りである。人間には権利と義務があるのはいうまでもないことで、倉紡の人道主義は、個人の人格を尊重する反面、個人にあっては人間としての道徳的義務遂行の生活を意味している」。大原氏の内面的な自己規制がうかがえる。

 事業が思わしくないときでも、科学を労働福祉に役立てる仕事は自分しかできないと、研究所を守り抜いた経営者でもある。バブル時に〝企業メセナ〟を打ち出した企業は数多い。その後、一体何社がその姿勢を保持できているのだろう。メセナは、決して企業のイメージ戦略ではない。