産地における商社機能を問う

2000年04月17日 (月曜日)

 一九七五年から九五年の二十年間は商社の時代だった。この間、産地は紡績、問屋、産元などに加え「商社」の存在は大きかった。いわゆる、オッパ取引全盛、金融与信機能が大きな意味を持つ時代で、県外商社、専門商社はそれぞれのスタイルで商量の拡大に努め、産地もそれに連動するように成長した。

 一九八九年、年号が昭和から平成に変わるとともに、産地に変化が訪れ、商社の蒲郡店、浜松店とも縮小の方向へと進んでいった。

 三河産地の蒲郡には元々、商社を育む素地は少なかった。三森を代表する小森、森菊、森重実業が産地のリーダーだったためだ。遠山産業の蒲郡は糸売りで、興和の蒲郡産元商社的な存在だった。

 他方、浜松には旧五綿八社の大部分が店を構えていた。現在は名古屋系の専門商社、豊島と信友、県外商社では丸紅の浜松出張所だけである。

 伊藤忠商事浜松支店が今年三月末で閉鎖され、約五十年の歴史にピリオドを打った。昨秋ごろ同支店が存続するかどうか産地で話題となった。昨年十二月の経営会議で正式に廃店が決定され、今年一月から三月にかけて閉鎖のための作業が行われた。

 同支店は遠州産地の鏡だった。指導力もあり歴代支店長が産地と一体となってリードしてきた。とくに、伊藤忠弐拾日会(竹内隆会長=山竹猪産業会長)は同社と遠州産地を結ぶパイプの機能を有し、この会のメンバーになることは産地業者のステータスでもあった。

 同会創設期には、当時の伊藤忠商事繊維首脳だった越後正一氏や野村福之助氏らを招き同会とタイアップして産地講演会をたびたび開いた。越後氏の綿糸部長時代、社長時代にも年に数回浜松を訪問し、同社と浜松の結びつきをより強固なものとした。

 当時の西田武夫支店長(故人)が当初、機屋だけで研修や勉強会をスタートしたのが同会始まりで、産地ブランド「遠州一号」が同社と産地の機屋で創出されたのは一九五五年ごろだった。糸売り、オッパ取引、金融与信など、同社と取引ができなければ一流と言えない時代でもあった。

 閉鎖の理由は採算が合わないこと、浜松支店存続のための人的な問題などがあったと聞いている。かつてはトーメン、ニチメン、兼松、丸紅、伊藤忠などの各浜松支店が存在したが、今のようになるとはだれが予想しただろうか。産地のある関係者は「商社の浜松支店が消滅しても困ることはない」―それだけ存在感がなくなったということになる。

 伊藤忠商事出身のムトウの西田溥社長やハマキョウレックス(物流会社)の渡辺副社長が浜松で活躍されてうるのをみるにつけ、商社の産地支店に人材がいない、産地に向いた人材を育てていなかったという背景もいなめない。

 三河産地の蒲郡でも伊藤忠商事名古屋支社繊維部が大暴れした時代があった。

 ドビー生地織物でバニラン、シャリー、アムンゼンなどの生地を「共販システム」で、三河の有力な生地機屋と直接取引し、三森の牙城を切り崩しにかかった大仕事だった。数年で消滅したが、当時は産地を揺るがす商業ビジネスとして大いに話題を提供した。

 興和が蒲郡店を出したのは古く、三森との協調もうまくいっていた。一時は閉鎖のピンチもあったが、木下恒副社長のつるの一声で存続が決まり、出張所から支店へ、現在は営業所になっている。興和素材加工部の一営業セクションとして興和蒲郡がある。大手のヤママキ織布などでは興和蒲郡からの発注もあると聞く。

 また、糸売りでは遠山産業の蒲郡も忘れることができない。とくに、森重実業の伊奈作一郎会長がこの遠山産業をよく活用していた。糸商から縫製産元的な業務をしてきたが、引っ掛かりが多いのと採算難で閉店になった。

 もともと、蒲郡や北陸の金沢のような保守的で他県人を容認しない産地には商社は育ちにくい側面がある。金沢は昔、一村、岸商事、西川物産の御三家、蒲郡は三森の御三家、地域密着型産元が今でも健在なのは、時代に沿った産地ビジネスを組み立てているからだろう。

 産地に商社の商権は残っているのか。十分残っているという声が多い。

 豊島浜松はコンバーター機能を持ち、プリンターに生地提案から加工オペレーションまでの一貫業務を推進している。また、ユニフォーム生地をリスクして、現物でも小ロットでも即納対応する。信反浜松は糸売りでの存在が大きい。現在、浜松産地内で支店に糸売り専従スタッフを置いているのは信友だけである。安藤支店長は「糸売りについての新規取引先は、ここ数年確実に増えている。浜松産地の糸消費量は落ち込んでいる。北陸の産元にも長繊維と交織でスパン糸も売っている」と語る。テキスタイルも日清紡ほか、紡績テキスタイル部門への生地提案も大きな業務の一つである。

 商社も自己商いを確立しないことには存在感がない。かつて、浜松産地の織物を輸出販売の窓口商社とする機能がかなりの部分を占めた時代もあった。しかし、ニクソン・ショック以降こうしたオペレーションも輸入にとって代わる時代になり商量ダウンに結びついている。

 大型商社の場合、産地のテキスタイルビジネスの中に入っていくことは、本社と支店での口銭のやり取りや与信管理なども含めて極めて難しい。

 商社には一定のボリュームがなければビジネスになり難い。伊藤忠商事の原糸部門は小口の客先を切り捨てて採算をキープする手法をとってきている。合理化の一つの表われでもある。産地の産元、加工場、機屋は今、商社に情報機能を求めている。「人・物・情報」は産地にとって不可欠である。