繊維街道・私の道中記/浅野撚糸社長/浅野 雅己 氏(1)/香港糸に顧客奪われる

2015年04月20日 (月曜日)

 確かに廃業のふちにいた。しかし、今廃業すれば借金して設備投資した外注先が困る。苦心惨憺(さんたん)して蓄積した技も埋没する。今回の「繊維街道 私の道中記」は、廃業のふちで踏ん張り、「エアーかおる」タオルをヒットさせた浅野撚糸(岐阜県安八町)の浅野雅己社長だ。

    

   浅野は、岐阜県の小学校の教師を3年勤めた後、念願の中学校の体育教師になっていた。そのころ、浅野の父は、請われて岐阜県西部の撚糸業者の組合の理事長に就任する。

 父は2年間の任期の2年目に、「将来のためにダブルツイスターを新品に入れ替えよう」と組合員に呼び掛けました。本人は廃業するつもりだったので買う気はなかったのですが、行き掛かり上、買い替えました。そうすると仕事がどんどん入って来る。しかし、父は当時53、54歳。60歳定年が当たり前の時代でしたので、後継ぎの有無が話題になる。「息子が後を継ぐ」と嘘をついていたようです。

   「新米は鍵を開け、鍵を閉めてから帰れ」との父の教えを守り、朝7時には学校に行った。帰宅は晩の11時ごろという日々。指導した生徒が陸上の全国大会に出場するなど、教師としていいスタートを切っていた。しかし、父の思いは分かる。家族の事情も重なって、入社を決意する。1987年のことだ。

 入社した当時、ダブルツイスターを備える撚糸工場が少なかったため、注文はたくさんありました。しかし、95年に為替が79円になったあたりから、生産の海外移転が加速し始めます。その少し前から研究していたプライヤーン、長短複合撚糸をやってみたいと思い、その生産に必要なクイックトラバースという機械を買うことにしました。父は、「意匠撚糸の世界に手を突っ込むな」と反対しましたが、結局、村田機械の研究所に一緒に見に行き、1号機を発注しました。その後父は、「お前が自由にやってみろ」と言って、会長に退きます。

   95年、35歳で社長に就任した浅野は、工場に据え付けられたクイックトラバースの改造に取り組む。村田機械の技術スタッフは3カ月間、泊まり込みでその作業に当たった。そして、改造機を完成させる。複合撚糸のおかげで、業績は好転した。99年の売上高は、過去最高の7億2000万円に達する。ところが、それを境に再び暗転した。

 当社で作っているような長短複合撚糸は今も、中国では作れません。しかし、対抗馬である芯にポリウレタンを配した芯鞘構造糸が、香港でも作られるようになりました。「紡績も織布も中国で行っているのに、なぜ撚糸だけ日本なのか」ということで、当社の複合撚糸に代えて香港の芯鞘構造糸が使われるようになっていきました。(文中敬称略)