2019春季総合特集Ⅳ(2)/若い力が変化をもたらす/川俣、米沢の慣習をを打破、次世代の繊維産地を担う/齋栄織物 常務 齋藤 栄太 氏×青文テキスタイル 常務 鈴木 健太郎 氏

2019年04月25日 (木曜日)

 国内の繊維産地で、若手経営者が新たなビジネスを模索している。職人の高齢化に伴う人材不足や工場設備の老朽化、新興国の台頭といった喫緊の課題に対し、正面から向き合っている。グローバル化と少子高齢化で国内のファッションビジネスが激変する中、繊維産地を次世代にどうアピールしていくのか。平成が終わるタイミングで、齋栄織物(福島県川俣町)の齋藤栄太常務と青文テキスタイル(山形県米沢市)の鈴木健太郎常務に対談してもらった。

  ――繊維産地にとって平成はどのような時代でしたか。

 齋藤氏(以下、敬称略)私は平成12年に入社したのですが、業績としては“どん底”の状態でした。大学3年生の頃に、父親から「実家(斎栄織物)に戻らないなら会社を閉める」と言われ、会社の内情を初めて知ったほか、シルク素材の需要が減少していることを実感しました。特に(会社のある福島県川俣町は)白生地の供給が中心だったので、元々アパレル向けは少なかった。平成12年当時は、産業資材に特化したり、スカーフ用に生産するなど、差別化を図る時期でもありました。

 需要がピークだったのは、平成元年~3年頃でしたね。皇太子妃雅子さまがシルクのスカーフを巻いて公務に臨まれたので、市場でスカーフ・ブームが起きました。これが最近のピークです。(平成時代の)30年かけて少しずつシルク市場が小さくなっています。その一方で、他の産地に比べて産元商社や問屋機能がほぼなかったので、取引先とのしがらみがなかった。直接的にメーカーとビジネスをすることもできました。そういった意味では従来型のビジネスから脱却し、新たな方向性を示すのも早かった。それに伴い、後継者が川俣産地に戻ったのも早かった。

 鈴木氏(同) 私は平成9年入社ですが、その頃が(会社のある)米沢産地のピークでした。青文テキスタイルとしても、今の4倍程度の売り上げがありました。新入社員を積極的に入れたりして、とてもいい時期でした。しかし、その後はリーマン・ショックや中国への工場移転など、川俣産地と同じく右肩下がりの状況となりました。ただ、米沢は繊維の街なので、機屋や撚糸、縫製業、染工所があり、規模は小さいながらも繊維産地として完結することができました。生産の国内回帰という流れもありますが、今度は人口減少という課題も出ています。アパレル業界の低迷という要因もあり、難しい状況が続いていますね。

 問屋とのしがらみもあったのですが、流通の淘汰(とうた)などがあり、問屋の力が弱体化しました。当時はアパレルに直接的なプレゼンテーションをすることもできなかったのですが、それもできるようになっています。米沢産地の課題としては“待ち”の状態でビジネスをしていた訳です。問屋に言われた物を丁寧に製作することはできますが、彼らがいなくなって、自分たちでどう提案するのかが課題になっています。

  ――原材料費や工賃、賃金といった生産現場の現状については。

 鈴木 原材料費は上がっていますが、工賃は上げていません。私たちはブラックフォーマル用の生地も作っていますが、原材料のトリアセテートの価格が上昇傾向でも、これまでの力関係上、なかなかアパレル企業に(上乗せを)言うことができません。それでも最近は、交渉しながら価格を上げるようにしましたが。

 齋藤 福島県という立地から言うと、賃金を上げる状況が続いています。東日本大震災が発生し、被災地にさまざまな(復興関係の)人材が求められることになりました。翻って、賃金をかなり上げないと繊維工場に来てくれない状況になりました。震災後に入社した人が、給料が高いという現状ができてしまいましたので、ここは社内でも議論しています。賃金はアップしましたが、工賃は上げていません。シルクの原材料費もかなり上がっていますが、それに加えて人件費や運送費、加工費もアップしているので、この部分も厳しいですね。

〈未来は「厳しい」が〉

  ――繊維産地の未来はどうなると思いますか。厳しい状況を打破する方法とは。

 齋藤 全体的に産地は縮小しますが、ゼロにはならないと思います。既存の物だけを作っていても、そのうち淘汰(とうた)されるでしょう。新商品を開発して自社で売っていくのか、それとも別分野で市場開拓を行うのか。衣料品ではなく、工業製品やメディカルに進出するのか、考えている工場もあると思います。アパレル向けよりも、非アパレルということになるかも知れません。同じ繊維でも、ファッションとは別分野ということも考えられますね。さらに、織機などの設備の更新も課題になっています。

 鈴木 (米沢の)産地も淘汰が進むと思います。需要が減っている中で、供給が多いように感じます。そこで生き残るために、自分たち(機業)が繊維・非繊維に限らず目を向けていかないといけない。人口減少や人手不足といったネガティブな議論になりがちですが、ちょっと目線を変えることも必要。つまり、非アパレルや日常の布使いを意識していきたい。日常の布使いから、改めてアパレル製品につながるかも知れないし、頭を使ってプロモーションをしていきたい。そうしないと、米沢産地として継続するのは難しい。

 平成の時代は「米沢産地」として何とか生き残ることができました。その背景として「米沢織」を商標登録しており、長い歴史を訴求しています。歴史を積み重ねてきたという武器を持ってプロモーションを打っていきたい。産地自体の規模が小さくなったので、一企業としての影響力は弱くなりました。そんな米沢の企業が集まり、企業体として「米沢株式会社」を立ち上げても面白いと思います。あくまでも仮の話ですが、とにかく企業がタッグを組むことでその影響力を高めることが必要です。年号が「令和」に代わりますが、若い人にバトンタッチするベースを作りたいですね。

  ――米沢という地名を使ったブランド戦略を進めています。具体的にどう確立させますか。

 鈴木 地域のブランド戦略「チーム・ネクスト・ヨネザワ」を進めています。米沢市役所が主体になり、繊維だけではなく、金融機関やサービス業など、約80社で地域資源の掘り起こしを行うものです。博報堂がプロモーションを担当し、米沢産の品質向上、イベント開催を念頭に地域のブランド化を進めています。ニッターや織物メーカーも参画し、横の連携も取れるようになりました。

〈衣料品に限らず、別分野も深耕〉

  ――産地が抱えている課題と、その解決策については。

 齋藤 川俣産地は連携が下手なんです。現状の経営トップは高齢者が多いのですが、従来型のビジネスに終始している感じがします。例えば、都内の展示会に出展するのはウチだけかも知れないし、川俣産地としての合同展示会も2013年以降、行っていない。展示会の重要性を理解していない経営者も多く、「サンプル出しをしても、どうせ決まらない」「生地をコピーされる」といったひと昔前の意見を聞くこともあります。ある程度、固定客がいるので焦りがないのですが、新しい分野に挑戦する意欲が感じられない。

 先日は、ファッションイベント「アマゾン・ファッション・ウィーク東京」で、福島県が主体となったファッションショー「フクシマ・プライド・バイ・ジュンココシノ」を開催しました。工芸品やニット、金属類を組み合わせた意欲的なショーだったのですが、もっと織物に特化した形でもよかったですね。展示会も開いたのですが、こうした最終製品を製作するには資金もかかるし、継続するのはもっと難しくなる。あと、国内だけだと需要が少ないと感じます。当社は輸出をしていますが、商社を介さずに直接輸出できるようにしています。

 鈴木さんも言ったように、当社も非衣料を深耕しています。ファッションのように華やかな業界ではありませんが、工業資材の分野が伸びています。工業資材は消費材でもあるので、定期的に長いスパンで注文が入ります。今は、工業資材の売り上げシェアが約5割になっています。ただ、新規取引先を探すのが難しいので、展示会で工業資材の取引先を開拓することが多いですね。

 鈴木 米沢産地は、設備投資が課題になってきました。これは、設置、メンテナンスを含めた問題。物はあっても設置できない、メンテナンスができない現状があります。機械の絶対量が減っているので、業者としてもビジネスになりにくいのでしょう。自前でメンテナンスをしている工場もありますが、その担当者が70~80代ということも少なくないですね。当たり前のことができなくなるというか、日本の生産ノウハウが失われる局面になっています。

 齋藤 川俣産地も同じ課題があります。こちらは機械部品の調達も危うい。部品を日本中から探し、セッティングして調節することができなくなりそう。高齢化で後継者がいませんから、このままだと基本的な作業ができなくなるでしょう。本来ならば、メンテナンス部門を産地で共有することが肝要なのでしょう。共有ができなかったので、今の状態になっています。あと10年、このままだったらおしまいですね。

  ――危機感を持っているのに、まだギリギリで何とかなると思っているのでしょうか?

 齋藤 おそらく皆さん、会社ベースで対処している。日本特有の悩みかも知れないですが、皆が同じ機械を使用していない。工場によってとても古い機械や最新のマシンを稼働させていることで、シャトルや細部の部品でサイズが(微妙に)違うんです。供給がまとまらない。

 当社では工業資材用のシルク需要が伸びているので、生産計画も立てやすい。工場には106台の織機があるので、さまざまな業種の仕事を取りながら稼働させなければいけません。古い織機もありますが、なるべくフル稼働させています。

 鈴木 米沢産地内で、加工などを含めた素材製作を完結できます。産地で共同出資する会社形態もありますが、事業として成り立っていくのか不安もあります。コンスタントに仕事があれば別ですが。後加工をする工場がなくなれば、私たちの産地も危うい状況になりますね。

〈歴史が表に出ない悔しさ〉

  ――お互いの産地から見て、それぞれの長所と短所は。

 鈴木 実は父親の実家が川俣なので、幼少の頃から川俣へ遊びに行っていたんです(笑)。それも機業だったので、当時は、織機の“パタパタ”という音が聞こえていました。よく覚えています。20台ぐらいの機械が動いていました。福島県の川俣になじみがあるので、なんとなく(米沢と)課題は似ている感じがします。メーカーとしてメディアにアピールすることが必要ですよね。

 齋栄織物さんのように、新聞やテレビに取り上げられるようにしないといけない。「ミラノ・ウニカ」へ出展した際、ラグジュアリーブランドのテキスタイル担当者と商談している姿がテレビで紹介されていましたよね。齋栄織物は「異端児」のように扱われていましたが、これがスタンダードにならないといけない。今は米沢に仕事があるからいいですけど、「待ちの体制」だと、いずれは仕事がなくなります。齋栄織物は東日本の代表としてメディアに登場することもあり、とても参考になるし、見習うことも多い。機業が積極的に外へ発信しなければいけない。よく国内のアパレルメーカーから価格を下げるように言われますが、ただ従うのではなく、新規に海外でビジネスをすることを考えなければいけないでしょう。

 当社は創業から142年の歴史があります。それなのに、青文テキスタイルという名前が世に出ていない。それが悔しい。当社はともかく、やはり最終製品まで製作し、川俣発のブランドや自社のブランドを立ち上げることをしなければいけない。とても労力のいる作業ですが、(川俣産地の)集合体となったときに、海外のブランドは喜んで買い付けると思います。海外の担当者は、歴史や文化をとても重んじますから。

 齋藤 そんなに言ってもらえると、ちょっと恥ずかしいですね。そういえば、青文テキスタイルさんはオリジナルブランドを展開していますよね。

 鈴木 洋服まで手掛けると大変なので、まずはストールを提案しています。ストールがコマーシャルになり、本業のOEMに生かせると思います。(川俣産地がある)福島県は復興することも同時にしなければいけないので、米沢と状況が異なります。なんとか産地の集合体を作り、ビジネスにつなげてほしいです。

 齋藤 川俣から見ると、米沢産地がうらやましい部分もあります。米沢には加工場や整理、染工場などがそろっています。川俣に撚糸工場はありますが、それ以外はほぼなくなりました。米沢で後加工ができる強みは大きいと思います。川俣は7、8年前に後加工ができる工場がなくなり、産地外の工場へ持って行くのが大変な作業でした。地元ならではのスピード感は大事ですし、外へ持って行くと(新規なので)加工賃も高くなります。輸送の費用や日数もかかるので、米沢がうらやましいですね。

 米沢、川俣ともにPRは必要です。他のメーカーからたたかれるかも知れませんが、生き残るためには自身でPRすることもしなければ。その際、私は会社名で訴求するよりも産地名でアピールするようにしました。そのほうが、産地に仕事が来ますし、産地そのものにスポットライトが当たります。当社も含めて、以前はPRが下手でした。そこで展示会に参加したり、メディアにアプローチするようになりました。

 鈴木 こうした対談に出ることも、繊維業界で知ってもらえる一助になります。今はSNS(会員制交流サイト)で発信できる時代ですし、さまざまなチャネルを持っておきたい。機織りするだけの工場でないことを、多くの人に知ってほしいですね。

  ――協業という考え方では、デザイナーとのコラボレーションもあります。実績はありますか。

 齋藤 ファッションデザイナーとのコラボレーションを実施したこともありますが、相手が有名デザイナーであると、工場や産地名が埋没してしまう。より有名なデザイナーと協業すると、この傾向が強いですね。メディアや商品に産地名が残らない。コラボ相手が中堅デザイナーであると、商品(生地)が売れない。デザイナーの選定は、ものすごく難しい。できればデザイナーとのダブルネームがいいのですが。

 鈴木 私は、素材が(ファッション業界で)認められる時代になっていくと思います。ダブルネームをはじめ、糸の調達を含めたトリプルネームもあっていい。ありふれた生地だと、デザイナーやアパレルも目を向けなくなる。価値を高める方策が必要です。

 ただ、最近気になるのは、アパレル側から「この生地はどう使えばいいの?」と質問されることが多いんです。私が、「ワンピースやスカートにいかがですか」と応じるのですが、本来は、アパレル企業のデザイナーが商品に合わせた生地を探すものですよね。最近は質問されることが当たり前になり、質問を想定した展示をしています。こちらが(展示用の)ワンピースを製作してアパレルに提案しています。押し付けがましいですけど、あきらめていると言うか、割り切っています。一方で、買い手のイマジネーションを膨らませるような生地を供給し、青文テキスタイルの強みを提案しています。

〈欧州、中国市場を攻める〉

  ――海外展開や展示会でのビジネスについて教えてください。

 鈴木 ミラノ・ウニカへの出展は休んでいますが、国内の合同展示会に参加しています。米沢は、高密度のシルク生地を得意としているので、海外では、同じくシルク生地を展開するイタリアのコモ市と、得意分野でバッティングしています。同じような生地を欧州に持っていっても通用しない。そこで青文らしい生地や最終製品を提案しながら、日本の産地を想起させるような商品を並べないといけない。量を売る会社ではないので、まねのできない生地を販売しないと意味がないですね。今はミラノ・ウニカを休んでいますが、海外展開も強化したい。欧州以外では「インターテキスタイル上海アパレルファブリックス」でもいいし、再び海外も攻めていきたい。

 齋藤 当社はミラノ・ウニカに継続出展し、インターテキスタイル上海は、5回出展して、前回は休みました。中国の勢いはすごかった。決済は直接行っていたのですが、限界を感じたこともあります。まず、回収が難しくなった点と、電子決済が中心になりつつあることで、戸惑いもありました。ウィーチャット・ペイメントやアリペイといった電子決済は、ついていけないし、(相手の会社や取引先の顔が見えにくいので)資金の流れ的にも怖かった。中国では食事やホテル、タクシーも電子決済が主流。話はそれましたが、要するに回収が難しくなっています。

 海外の売り上げシェアは、全体の5割を占めています。欧州は継続して生地を買うことがほとんどないので、スポットでの購入が中心です。米国は定番物を継続して購入していますね。リーマン・ショック時には、米国の取引先がゼロになりましたが、ようやく回復してきました。海外に行かないと、顧客に合えないし、プロモーションもできません。採算を考えながら、海外市場を攻めている感じになります。

  ――次世代の産地を担う者として、今後はどう動いていきますか。

 鈴木 米沢は繊維の街ですが、この地場産業を守っていきたい。子供たちが将来、米沢で就職できることや、カッコいい大人がファッションを発信していることを伝えないといけない。若い人が米沢で仕事をし、こうした活力を次世代につなげたい。今の状況を打破するために、先ほども言いましたが、地域ブランドをさらに振興し、最終製品を真剣に打ち出したい。イベントも米沢が主体的に継続開催したい。産地が生き残るためには単発の訴求ではなく、私たちが中心になって持続可能な形でイベントを行いたい。東京の優秀な人材を呼び込む気概で進めたい。

 齋藤 齋栄織物としては、最終製品やインテリアなど、従来と異なる「柱」となる事業を成立させたい。そこに連携は必要になります。1社では事業を大きくするのは難しいので、幾つかの可能性を模索しています。廃液処理などに配慮した、次世代(糸の)染色機の開発に成功し、実用化の手前までこぎ着けました。これは今治タオル、機械メーカーと協業したものです。メディカル分野での連携も行っています。さらに、つくばにある農研機構(茨城県つくば市)で、遺伝子組み換えシルク(超極細繊維で強度があるもの、高染色性など)を織るということも進行しています。(当社は)連携が不得意だったのですが、今は積極的に行っています。人が入ってこないと、さらに産地は衰退しますし、川俣が繊維産地であることを示したいと思います。

  ――ありがとうございました。

◇青文テキスタイル◇

 1877年創業。山形県米沢市を拠点に、織物製造、ニット製造の2事業部を持っている婦人服のテキスタイルメーカー。多品種小ロット生産という市場ニーズに対応し、スピードと確実性を企業のモットーにしている。同社では「地域社会から支持され、世界に向けて発信できる企業を目指す」と言う。

◇齋栄織物◇

 1952年創業。福島県川俣町を拠点に、世界一薄い絹織物や先染絹織物(タフタ、スーパーダッチサテン、オーガンジーなど)、絹織物和装裏地、工業用資材、ストール・スカーフの企画・製造・販売を行っている。同社の夢は「パリのオペラ座のような伝統ある劇場で、齋栄の生地が舞台衣装として使われること」と言う。