繊維街道 立志編 〈杉岡織布社長  杉岡定弘 氏〉上

2021年09月14日 (火曜日)

電話に出るのが嫌で嫌で……

 滋賀県・琵琶湖の北西部に位置する高島綿織物産地。その発祥時期は定かではないが、今から350年ほど前という説が有力だ。現在の高島織物工業協同組合の前身である近江木綿縮営業組合は1886年(明治19年)に設立されている。杉岡織布は1955年(昭和30年)の創業とかなりの後発。3代目社長の杉岡定弘氏(以下敬称略)によるとそれゆえ、肩身の狭い思いも強いられてきたと言う。しかし、産地の若手をぐいぐい引っ張る定弘に卑屈さは見られない。

                    ◇

 杉岡織布の創業者は定弘(50)の祖父、定次氏。2代目が定弘の父、敬司氏だ。祖父の記憶はおぼろげだ。

 祖父は私が3歳の時に他界しました。機織りや商談中の祖父にまとわりついて邪魔をしていた記憶がおぼろげにあります。

 周辺には織物工場がたくさんありました。祖父は、織物会社や織物組合に勤めていたのですが、独立して杉岡織布を立ち上げます。かなりの後発だったこともあり同業者からの嫌がらせのようなこともよくあったと聞いています。田んぼも持っていない家でしたので、当時は肩身の狭い思いをしたそうです。

 祖父は「教師になりたい」という父の夢を認めず、家業を継がせたそうです。その後、59歳で亡くなった祖父から父へとバトンが渡されました。産地唯一の染色加工場である高島晒協業組合や現在の杉岡織布の工場が建てられたのもこの頃で、産地全体が「さあこれから」というタイミングの中でのバトンタッチだったと聞いています。祖父が悔しがっただろうことは想像に難くありません。

 幼少期の定弘は積極的に家業の機織りを手伝うタイプではなかった。むしろ、どちらかと言えば避けていた。

 私には姉と弟がいます。工場は自宅の隣にありました。機織りを手伝わされることもありましたが、楽しいものではなかったですね。それを避けたかったからなのかは覚えていませんが、近所の家によく遊びに出掛け、夕ご飯を食べさせてもらって帰ってくることも多かったですね。

 兄弟3人が共通して嫌だったのが、電話に出ることでした。当時は工場に電話がなく、取引先からの電話は隣接する自宅にかかってきます。両親そろって工場に入ることが多かったため、電話には子供が出なければいけない。出てもどうせ仕事の話。さすがに無視はしませんでしたが、それが本当に嫌でしたね。

 当時の父は、仕事の手伝いにしろ何にしろ、「とにかくやったらええんや」と言うのみで、なぜそうなるのか、なぜしないといけないのかなどの説明はしてくれません。要するに、人にものを教えるのがうまくないのです。教師にならなくてよかったなと思います。そんな父の性質が嫌いだったのですが、最近自分にもそういう部分があることが分かり、少々落ち込んでいます。