繊維街道 立志編/杉岡織布 社長 杉岡 定弘 氏(下)

2021年09月16日 (木曜日)

産地存続へ、父と共に

 1998年に実家に戻り、家業に入りました。エアジェット織機導入から10年がたち、父も楽しそうに仕事をしていました。

  90年代後半と言えば商社やアパレルによる生産の海外シフトが相次いでいた頃。杉岡織布の大口取引先もその一角を占めており、父の敬司氏には「織物工場の技術指導のために一緒に中国に来てくれないか」との依頼が入った。しかし、おそらく高収入だったであろうこの誘いを敬司氏は断った。

 理由は「残った家族が産地内で白い目で見られるから」というものでした。海外シフトの手助けをするのは自分の首を絞めるようなものです。たしかにその通りなのですが、私としては、家族を理由にするのではなく、自分の意志で決めてほしかった。「家族がいなければ行っていた」という言い訳につながりかねませんからね。

  父の下で仕事を覚える毎日。父には父の、子には子のこだわりがあり、相いれない部分が表面化していく。2014年に杉岡は社長に就任。敬司氏は会長に就いた。同産地には、閑散期に定番生地を織っておき、注文が来れば出荷する備蓄生産販売という手法が根強く残っている。ちぢみ(楊柳、クレープ)という盛夏素材を主力とし、閑散期が長いゆえの工夫だろう。しかし、多品種化やオリジナル重視の流れの中で、在庫が残るようになってきた。この改革にいち早く着手したのが杉岡だ。旧来の手法を踏襲したい父とのあつれきがここでも生まれる。

 父のことは一人の人間として尊敬しています。おしゃべりで愚痴も多い自分とは違って愚痴めいたことはほとんど言いません。周囲からは「おまえの親父はすごい人や。人間性も素晴らしい」とよく言われます。この評価のおかげで仕事がしやすいのも事実ですからね。

 父がいつまで現場で仕事をするのか。それは本人の判断に任せています。ただ、新型コロナウイルス禍など混乱を極める今の状況を見ると、もう少し残って助けてほしいとは考えています。

 高島産地には30~40代の若手が数多くいる。少なくとも織布企業の中では他産地に比べて後継者難という言葉が出る頻度は圧倒的に少ない。杉岡はそんな若手世代のリーダー格であり、親世代にも物を言える立場。取材時にはいつも、産地全体への問題意識が口をつく。

 産地あっての杉岡織布です。古きをリスペクトしつつ、新しい物や手法を取り入れていけば、生き残ることができる産地だと思います。若手にはもっと産地の一員であることを自覚してもらい、産地全体で業界や消費者にアピールしていくことが産地存続には必要不可欠であることを知ってもらいたい。自社のことで忙しいのは理解しますが、もう少し産地全体に目を向けてもらえたらと願っています。

 産地では最近、社長交代が相次いでいる。その多くが父と子の二枚看板制を敷く。

 私が産地のことを考えられるのは父がいてくれるから。頭が二つあるうちに、産地機能の維持拡大に貢献していくつもりです。(この項おわり)