繊維街道 立志編/カジハラデザインスタジオ 代表 梶原 加奈子 氏(上)/10代でテキスタイルデザイナーを志す

2021年10月12日 (火曜日)

 テキスタイルデザイナーの梶原加奈子氏(以下敬称略)が、自身のデザイン事務所を設立して15年という節目を迎えた。その仕事は多岐にわたり、日本国内のテキスタイル産地に赴き、オリジナルの服地開発や製品ブランドの立ち上げ、企業のコンサルティングなどを手掛ける。直近ではオンワードグループの新規事業「クラハグ」で、ファクトリーブランドの展開や工場オリジナルの商品開発をサポートしている。

 10代の頃にテキスタイルデザイナーの道を志すが、その道は険しいものだった。しかし、若い頃の奮闘について「人生観が養われた」と笑顔で話す。当初はデザイン業務に主眼を置いていたが、近年は「日本のテキスタイルを世界へ発信する」ことに注力している。

   1973年、北海道札幌市で生まれる。7歳上の兄がグラフィックデザイナーとして活動していたことから、デザインの仕事に興味を持ち始める。そして、日々の生活を豊かにしてくれるテキスタイルデザイナーという存在を知る。

 中学生の頃ですが、家の中にデザインやコピーライトの資料があり、10代後半からデザインの仕事をしたいと考えていました。厳しい世界とは全く知らなくて、もっと生活に密着した仕事だと思っていました。テキスタイルデザイナーになりたいと思ったのは、服やカーテン、着物にも素晴らしい色柄があり、日々の生活の中でクリエーションできる素晴らしい仕事だと思ったからです。

 ところが「デザインの仕事は過酷で大変。女性ができる仕事ではない」という両親の反対もあり、地元、北海道の美術短大に進学しました。美術教員になることを考えましたが、諦めることができず、1年で退学しました。より専門教育が整っている東京の美術大学を受験したい。その予備校代や学費を稼ぐため、小樽~真鶴便のフェリーで住み込みバイトをしました。

 船乗りは給料が良かったのですが、親に相談せずに退学したのですごく怒られました。家出同然の船乗りです(笑)。荷物運びや給仕、なんでもやりました。船乗りになっても進学できる保証はありませんし、ダメだった場合はどうしようと考えることもありました。海の暗さに絶望感を覚え、朝の陽光に照らされる海から希望や安心感を得る経験をしました。朝日のように人を明るい気持ちにできるデザインをしたい――孤独ながらも人生観が養われました。

   晴れて多摩美術大学デザイン学部染織科に入学。上京し、両親などのサポートを受け、テキスタイルデザイナーとしての道が開ける。

 ようやく多摩美に入学したのですが、当時は予備校に通いながら2、3浪は当たり前の世界で(団塊ジュニアという)激しい競争の中で勝ち抜いたという背景がありました。入学時に、受験活動で疲れている学生も多かった。私は苦労して入ったので、初年度からの4年間を大切に使いました。

 当初は新聞配達をして学費を稼ぎながら多摩美に行くことを考えていたのですが、最終的には両親が学費と生活費を出してくれました。思う存分学ぶことができ、両親にはとても感謝しています。今まで逆らって生きてきた自覚もあったので。両親に迷惑を掛けた分、早い段階で就職を考えました。イッセイミヤケへの就職が決まった時、とても喜んでくれました。「デザイナーなんて就職できない」と思っていたようです。