創業20周年を迎えたダイワボウ情報システム/紡績が生んだIT産業の雄

2002年04月08日 (月曜日)

ダイワボウ情報システム(横山満社長、略称DIS)は、きょう8日、会社創立20周年を迎える。同社は1982(昭和14)年4月8日、ダイワボウの非繊維事業拡大策の一環で設立されたもので、社員10人、初年度売上高4億円のベンチャー企業としてすタートした。しかし今や、グループ企業4社を合わせ総従業員2100人、連結売上高3300億円(02年3月期)を誇る日本一のパソコンディストリビューターに成長している。わが国繊維産業の非繊維事業化で最も成功した事例の一つとされるDISの20年の軌跡と今後を追う。

石油ショック機に非繊維事業強化策/時流に乗った情報分野への着眼

1971年と79年の二度にわたる石油ショックによって繊維産業、とりわけ綿紡績は深刻なダメージを受けた。ダイワボウも例外ではなく、非繊維事業の拡大などを柱とする総合的企業体質強化策に取り組むこととなる。その基本構想の中で誕生したのが、情報関連事業を担うDISだった。

パソコン活用による生産現場のモニタリングシステムを自社開発した人材・技術力が経営資源となり、またエレクトロニクスという収益性で期待ができる時流に乗った分野への着眼も間違いではなかった。しかし情報関連業界からみれば「本業で食えないものが、どうしてパソコンの世界で食えるのか」とか「武家の商法だ」と揶揄(やゆ)され、揚げ句には「あの会社は2~3年内に無くなるなど、潰れることを期待されてのスタート」(故山村滋会長)だった。

現実に初年度の業績は、売上高4億9百万円に対し営業損失1801万円、経常損失1986万円で、資本金の2000万円も残り14万円とたちまち経営危機に直面した。

日本有数の急成長企業

産みの苦しみを経て、DISが情報技術産業の世界に本格的に出航したのは、当時ダイワボウの常務だった山村氏がトップに立った創業二年目の83年からだ。山村氏は得意のTQC(TotalQualityControl)を生かした方針管理によるトップダウンで、ワンマンと陰口を叩かれながらもぐいぐいと引っ張っていった。

もちろん何度も大小の暗礁に乗り上げたが、5年目でパソコン販売西日本一、全国規模でも老舗ディーラーを抜いて第4位となった。6年目の88年度には122億円の売上げを計上し、当初創業10年後としていた100億円企業に早々と仲間入りし、8年目にはパソコン販売日本一となる。 

日本経済は、バブルのほころびがみえ始め、やがて「失った10年」とされる90年代に突入するが、同社は88年以降6年間、売上げを毎年100億円ずつ上積みする快進撃を始める。10年目の節目となる91年度は売上高593億円。10年間で年商150倍という急成長は、いかに伸び盛りのパソコン産業とはいえどもあまり例がなく、DISはコンピューター業界という枠を超えて、日本有数の躍進企業として注目を集めるようになった。

97年夏に大手経済紙が同社を全国上場企業2000余社中「成長力第一位」の企業と報じたように、その後の成長も急で、94年度1000億円台(連結、以下同じ)、95年度1500億円台、96年度2000億円台、99年度2500億円台、01年度3000億円台と売上げを伸ばしている。また10年目に株式を店頭公開し、16年目に東証・大証の二部、19年目に第一部に上場した。

繊維から学びまた反面教師に/モノ作りへのこだわり絶ち、販売会社に専念

さてDISが、わずか20年でここまでに成長した要因を挙げるならば、なんといっても山村氏という強烈なリーダーの存在が大きかった。大企業のグループ企業トップとなると世間一般では「あがりのポスト」とされるが、「紡績会社にいてリストラ対策で苦労するより,よほど面白い」と、57歳で本社常務からわずか10人の会社に転進した山村氏のエネルギーは想像に難いものがある。

しかしそれ以上に注目されるのは、山村氏が繊維産業・紡績業での経験を継承し、また時には反面教師にして戦略・戦術を立案、それを実践してきたことである。

まず販売会社に徹した。発祥が紡績というメーカーであり、山村氏自身も紡織の技術者出身だけにモノ作りへのこだわりは根強かったはずだ。創業初期の繊維産業向けモニタリングシステムや糸量計算システムなどにそれはみられる。しかしその後は、すっぱりとパソコンのディストリビューターに専念したことで、現在の地位を確保した。

販売する〝玉〟に関しても徹底した。「どうせやるなら業界NO.1企業、それも市場で5割以上を占めるトップ企業と付き合いたい」との考えで、NECと粘り強く交渉し、NECのパソコンを扱うようになる。NECは79年に国産初の本格的パソコン「PC―8001」を発売して大ヒットを飛ばし、国内パソコン市場のリーダーとなっていた。しかもDISが誕生した同じ年に日本におけるパソコンの代名詞ともなったPC―9800シリーズ、いわゆる「98」(キュウハチ)を登場させた。NECの関本忠弘元社長が機会あるごとに「DISの発展はNECの98とともにあった。DISの歴史は98の歴史だ」と語ったように、DISは98とともに快進撃を続けた。

ただその後、日本のパソコン市場でIBM、アップル、コンパックなどの海外勢、さらには富士通、東芝など国内勢の参入で競合が進む中、同社は別会社の設立などでNEC以外の商品を扱う弾力的な取り組みをみせ、現在では全世界のあらゆるパソコンおよびその関連機器を扱う独立系ディストリビューターとしての地歩を固めている。

方針管理でトップダウン徹底

管理方式でも、徹底したトップダウンによる方針管理を採用。優先的に重点施策を決めてヒト、モノ、カネなどを配置する。毎年人員は30人ずつ増やし、新規支店を3店ずつ増やす。そのために資金を1億円使うというやり方だ。

また各支店長に「必要なら飲む、打つ何でもOK」と、責任権限を完全に委譲した。全国展開で各地に次々と支店を設立する中、いちいち事前承認を求めていては間尺に合わない。ただその前提条件として最終的に年間1円以上の利益が必要となる。逆に2年連続の赤字は支店長交代を余儀なくされる。

QCサークルという小集団活動は紡績工場長時代の経験だ。5人から7人、

多くて10人規模の小集団で、相互協力と相互けん制を図り、また他グループとの競争原理も生まれる。

事業部制の推進も特筆できる。競争原理の働きと責任体制の明確化を求め、従業員が30数人の時から同社はPC部門、FA部門、通信部門などの事業部制を敷いて責任体制を明確にしてきた。

業界を震撼させた即納体制/表裏一体の全国網羅の多店舗展開

しかし何といっても急成長の最大要因は、即納体制とその表裏一体の多店舗展開だ。パソコンの場合、顧客は注文して1時間で届けられて納得、5時間もかかっていては到底納得してもらえない。ところが当時のパソコン業界では、5時間どころか翌日、さらに数日たっての納品が一般的だった。「都市の中心部にデーンと大きな店を構えて商売する時代は終わった」との考えで、同社はまず西日本地区から、注文して1時間の納品を目指す多店舗展開に取り組んだ。この常識破りの発想は、業界を震撼させるとともに、急成長の大きな武器となった。

その後、同社の多店舗展開は北海道から沖縄まで全国的に広がり、一方で豊富な在庫、さらには全国物流網、IT技術を駆使したネットワーク展開へと形態は変わっても、全国どこでも注文1時間以内「即納」の精神は強烈なセールスポイントとして光を放っている。「お客が欲しい品物を、欲しい時に、欲しい組み合わせで、どこよりも早く、どこよりも安く届ける」という、同社が志向するディストリビューターとしての要諦は、この即納体制抜きに語れない。

山村氏はかつて「繊維業界には春夏秋冬、更には梅春などシーズンに対応した細かな対応が求められ、これを逃した在庫商品は致命的欠陥となる」とし、同社の即納体制なども繊維業界からヒントを得たことを明らかにしていた。

大きかった親会社ダイワボウ

もちろん、親会社ダイワボウの存在は大きかった。ある時期まで、大量の高額商品の支払いにはダイワボウの裏書は不可欠だったし、その他ヒト、モノ、カネの様々な面で「ダイワボウ」抜きには語れない。例えばヒト。会社規模が大きくなるに連れて同社では管理者の慢性的不足が顕在化してくる。そこで店長など第一線の管理者として、また教育のエキスパートとしてダイワボウを中心に東洋紡、ユニチカ、クラボウなど紡績工場から人材を採用した。その多くが、かつて紡績会社の工場長や課長・係長を経験した人、さらに労働組合の支部長・書記長経験者で、自ら備えた知識、経験、判断力、統率力、指導力が発揮された。山村氏は「一般に親会社などからの高年齢社員は有効に働けないことが多いと聞くが、部長や工場長、役職を経験した人材は必ず光る部分があり、適材適所で大きな戦力になってもらっている」と話していた。

独自のビジネスモデル構築/背景に35万種の扱い商品や全国拠点網

ところでDISは、黎明期から成長期にかけて強烈なリーダーの指示で構築・推進してきた戦略・戦術をその後、新たなビジネスモデルに育てたところに同社の今後がある。つまり仕入先のメーカー及び取引先の販売会社双方に選ばれるビジネスモデルを持っている点だ。

メーカーにとっては流通在庫の最適化・最少化への貢献や、商品に対する新鮮なアイディアと売れ筋商品情報のフィードバックが魅力であり、また二次卸は売れ筋商品を必要分だけ即時納入してくれる機能が提供してもらえる。このビジネスモデルの背景には、35万種を超す取り扱い品目の豊富さ、北海道から沖縄まで全国に広がる営業拠点、全自動化された12の物流センター、ITによる受発注体制などがある。これが全国15000社とされる顧客(二次卸業者)からの支持と、IT活用によるコスト削減などと絡んでの圧倒的な販管費率の縮小化に表われている。

04年度単体で5千億円突破を

横山社長は「20年の歴史は、先輩方の血のにじむ思いのご努力と、当社をごひいきしていただき、ご尽力を賜わった多くのお取引様のお陰であることは言うまでもない。しかし企業にとって、20周年は単なる通過点で、一層の発展を遂げていかなければならない。そういった意味でも踊り場に立つ今2002年は、当社にとって正念場といえる。厳しい環境に上下の区別なく努力して経済戦争に勝ち抜きたい」と語る。その上で、ディストリビューション事業の強化やグループ企業の連携強化などで、04年度には単体で「売上高5000億円突破」の中期経営目標を明らかにした。