繊維街道 立志編/Asahicho 代表取締役社長 児玉賢士氏(上)

2025年07月02日 (水曜日)

海外への憧れ、幼少期の原体験

 Asahicho(広島県府中市)は、作業者の持ち上げ動作の負担を軽減するアシストスーツ「e・z・UP」(イージーアップ)や透湿防水素材「ゴアテックス」を用いたワークウエアなど、高機能ワークウエア分野で独自の存在感を示している。3代目の児玉賢士社長(58、以下敬称略)は、日本における高視認性安全服の導入に尽力した第一人者。その高い機能性へのこだわりはどこから生まれたのか。その軌跡をたどる。

――児玉は幼い頃、祖父や父が仕事に打ち込む姿を見て育ち、自然と海外への憧れを抱くようになった。

 毎年正月2日に、従業員の方々が、創業者で祖父の児玉三郎に新年のあいさつに訪れて夜遅くまで宴会を開いていました。私も「3代目」ともてはやされ、いつか会社を継ぐのかなとぼんやり幼心に思っていました。

 祖父は何度か渡米し、製品に半永久的な折り目を付ける「パーマネントプレス」加工を国内にいち早く導入するなど、海外技術を積極的に取り入れました。その姿に強く影響を受け、「いつか自分も」と尊敬の念を抱いていました。

 2代目で父の児玉廣造も海外視察にたびたび出掛けていました。父が出張中に撮った16㍉フィルムで見る異国の風景は珍しいものばかりで、子供心に鮮烈な印象が残りました。

――学生時代にはさらに強く海外への憧れを抱くようになる。

 故郷の広島県府中市を出て修道高等学校(広島市)へ進学したことが転機となりました。親元を離れた学生生活は何もかもが新鮮で自由に満ち、下宿の近くにあった名画座「サロンシネマ」や広島市立図書館の映像文化ライブラリーに通い詰め、洋画をむさぼるように観ました。

 大学は慶應義塾大学(東京都港区)に進学しました。時代はバブル最盛期。海外から来日するクラシックやジャズの来日公演を鑑賞し、世界中の文化と直接触れ合った経験が海外志向をより一層強めました。

――1990年に、海外でも広く事業を展開する伊藤忠商事に就職した。

 繊維部門婦人衣料部ライニング課に配属されました。1年間基本的な事務作業を学んだ後、営業になり、主に旭化成のキュプラ繊維「ベンベルグ」裏地のうち、最終的に手芸店などで販売される「前売り」を担当しました。

――順調な社会人生活を始めた児玉。3年ほど経過したころに、バブル経済の崩壊がその身に忍び寄る。