別冊ジーンズ(2)/DENIM&JEANS/2000-2025現代史
2025年09月29日 (月曜日)
デニムとジーンズの歴史は2000年以降、あまり語られることがなかった。それは、バブル崩壊後の失われた30年の間、デニムとジーンズが一時冬の時代を迎えていたからだ。新型コロナウイルス禍後は冬の時代が終わり再び、世界から愛される日本のカルチャーとなりつつある。00年から四半世紀の歴史を記す。
〈2000年代/価格変化の時代〉
2000年代を一言で言い表すなら「ジーンズの価格が変化した時代」と言える。1990年代初頭に起きたバブル崩壊の影響が色濃く表れた時代で、2001年には、日本政府が戦後初めてデフレと認定。今で言う就職氷河期で、同時に企業が人員整理を実施するリストラの時代でもあった。景気は後退し、物価は下がり続けたにもかかわらず、消費は低迷した。
ジーンズもこのデフレスパイラルに巻き込まれていった。生産地は国内から海外へと移行し、店頭販売価格はますます下がり続けた。それまで隆盛を極めていたナショナルブランド(NB)は、価格の下落の影響を受け、ジーンズ専門店を中心とした旧来の商流は行き詰まり始めた。
さらに追い打ちをかけたのが、売り手が商品を販売業者に預け、販売された場合に販売手数料を差し引いた金額を受け取る「委託販売」という商習慣だ。消費が活発な時代にジーンズ専門店の棚を確保するために始まった商習慣は、消費低迷期に大量の返品を生み出し、NBの体力を奪っていった。
00年代後半に入ると、牛丼と並んでジーンズもデフレを象徴する商品として頻繁に報道されるようになる。09年にはジーユーが990円ジーンズを販売。西友やダイエー、ドン・キホーテなどもこれに追随し、千円を切るジーンズを市場へ投入した。いずれも単発の販売にとどまり即座に市場価格に影響を与えるものではなかったが、消費者が持つジーンズに対する価格イメージには強い影響を与えた。
国内のマスマーケットにおけるジーンズの底値は3桁まで下落した一方で、高価格帯のジーンズは存在感を増していった。00年ごろからサブプライムバブルの好景気に沸く米国から、「AG」「セブンフォーオールマンカインド」「ペーパーデニム」に代表されるプレミアムジーンズの流行が始まった。欧米のスーパーメゾンもこれに追随し、高価格帯のジーンズを相次いで上市した。02年ごろには、流行が日本にも波及。日本製のデニムも多く採用されて、クラボウや日清紡などの綿紡績は活況に沸いた。
エドウインもプレミアムジーンズの波及効果を受けて業績を伸ばした。日本人の体形に合う着用感とビンテージの風合いを備えた「ブルートリップ」シリーズで高価格帯の需要を捉えた。リーバイスは、人気ミュージシャンなどを広告に起用しファッションとカルチャーを結び付けた「ステイトゥルーキャンペーン」で付加価値を高め、高価格帯の501が好調を博した。
これまでNBが主に供給を担ってきた中間価格帯のジーンズは、さまざまなアパレルブランドがボトムのラインアップの一つとして販売するようになった。体力を失ったNBから流出した人材が商社やOEMメーカーに転職してアパレルメーカーにジーンズを供給。NBだけが知るブラックボックスだったジーンズ製造の知見が拡散され、消費者はNBでなくてもジーンズが買えるようになった。
価格の変化と選択肢の増加で、NBのジーンズを壁面の棚に積んだジーンズ専門店が寡占していた市場は漸減した。需要を下支えしていたプレミアムジーンズも08年のリーマン・ショックの影響で勢いに陰りを見せ、10年代の「ジーンズ冬の時代」へと突入していくのであった。
〈2010年代/価値変化の時代〉
10年代は「ジーンズの価値が変化した時代」だ。08年に起きたリーマン・ショックや11年の東日本大震災の影響が広がり、日本の景気は二番底へ転がり落ちた。国内アパレルは、従来の卸売業者を介さず企画から製造販売までを一貫して行い、かかる経費を削減するSPA(製造小売業)化が加速。海外勢のファストファッションも台頭した。
生活に必要なインテリアやファッション用品を同じコンセプトでそろえるライフスタイル提案型へ移行する販売店が増加し、ファッションの多様化が一層進んだ。ジーンズは数ある選択肢の一つとして埋没していった。
これらの要因が積み重なり、NBとジーンズ専門店を主体とした供給流通網は市場価値を急速に失っていった。09年にはボブソンが創業家の手を離れて経営体制を移行。12年には経営を引き継いだ新生ボブソンも倒産し創業家がブランドを再取得した。ビッグジョンも13年4月に創業家が退任、官民ファンドの支援の下で再建を目指すこととなる。エドウインもリーマン・ショックに起因する経営不振で同年11月に事業再生ADRを申請した。 ドクターデニムホンザワの本澤裕治氏が当時在籍したユニクロは08年ごろ、ジーンズの改善に取り組み、価格と品質の両立を目指した。当時は、液体アンモニア加工の普及でデニムの柔らかさを引き出せるようになり、スキニーや美脚ジーンズなどが増えていた。これらの市場を奪う形でユニクロのジーンズブランド「UJ」がレディース市場を席巻、10年代にはマスマーケットを寡占した。
カジュアルハウス306を展開していたサム&カンパニーなどの中堅ジーンズ専門店の倒産が相次ぎ、17年には、ジーンズメイトがライザップグループの傘下入りした。生き残ったライトオンも残存者利益を得るには至らず19年から赤字決算が続き、24年にワールドの再建型M&A(企業の買収、合併)を受けることになった。
ジーンズの市場価値の変化を受けて、新たな価値観の模索が始まった。その一つが、観光という切り口だ。10年に、デニム・ジーンズ製造卸のジャパンブルー(岡山県倉敷市)創業者の眞鍋寿男氏が主導して児島ジーンズストリート(同)を開業。当初は数店舗のみだったが、徐々に加盟店舗数を増やした。観光という切り口に早くから取り組んでいたのが、ベティスミス(同)。02年にジーンズミュージアムを開業し、増築を重ねて現在の規模まで拡大した。
時を同じくして、ビンテージジーンズの価格が徐々に上がり始めた。日本人の古着バイヤーが米国のローズボールフリーマーケットなどの古着市を訪れ買い付けたことがきっかけとなって、米国でビンテージジーンズの価値を見直す動きが見られた。閉山した鉱山を発掘し、古いジーンズを探し当てる「デニムハンター」も登場した。
プレミアムジーンズの終息やNBの苦戦と前後して、受注を失った工場がファクトリーブランドに取り組み、国産ジーンズメーカーが台頭し始めた。オイカワデニム(宮城県気仙沼市)もその一つ。PBで自立化を目指し、震災被災後も津波のがれきに埋もれながら、問題なくはけるジーンズが話題になった。
ジャパンブルーやTCB(倉敷市)、FOBファクトリー(同)など海外志向のメーカーは、ドイツの「セルビッヂラン」など海外の展示会に積極的に出展し、日本製のデニムとジーンズの魅力を地道に拡散した。後に日本製ジーンズが海外で評価される礎を築いた。
17年、デニムの歴史を変える決定的な出来事が起こった。リーバイスなどにデニムを供給する老舗デニムメーカーの米国コーンミルズ社がノースカロライナ州のホワイトオーク工場の操業を停止したのだ。メキシコや中国の工場は残ったが、ホワイトオーク工場の古いシャトル織機、一説には床の不安定さが影響した不均一なリズムが生み出す、独特なセルビッヂの風合いは、ロストテクノロジーとなった。
ジーンズ誕生の地、米国の技術を失ったデニム愛好家たちは、古いシャトル織機が残存し、ホワイトオーク工場と同等のセルビッヂを製織できる日本のデニムに注目し始めた。リーバイスもこれに対応するため、セルビッヂのサプライヤーにデニム製造国内最大手のカイハラ(広島県福山市)を指定した。
日本には、「ユニオンスペシャル」などのかつてビンテージジーンズを縫った古い米国製ミシンも残っていた。他国にはまねのできない、ハンドクラフトによる中古加工の技術も持つ。
00年代から洗い加工場が取り組んできた、オゾンやレーザー加工機などのサステイナビリティーに貢献する設備の導入は現在、欧州の製品を加工するためには必須条件となっている。これらの要因が合わさって、日本のデニムとジーンズは、世界から評価される価値を醸成していった。
〈2020年代/DENIM&JEANSの現在地〉
20年代は、19年に中国から広がったコロナ禍の影響を強く受けることとなる。経済的な負の側面が大きかったものの、コロナ禍がもたらした社会変容は、日本のデニムとジーンズを「世界に愛される日本のカルチャー」へと押し上げていった。
コロナ禍によってSNSが深く浸透し、日本から直接海外のデニム愛好家に訴えかけることが可能になった。円安進行で、海外のデニム愛好家にとって、日本のジーンズは手にしやすい存在になった。インバウンド需要は高まり、観光客はこぞって日本のジーンズを買い求めるようになる。
ユーチューブなどの動画サイトでは、芸能人が古着を取り上げ、ビンテージブームをけん引した。Y2Kファッションのリバイバルでジーンズカジュアルに追い風が吹く。
ビンテージジーンズは、需要が供給を上回り、コレクションアイテムや投機の対象となった。23年には、ビンテージ衣料輸入販売のマッシュルーム(新潟県弥彦村)が1873年に作られたリーバイスのジーンズを1650万円で販売、ビンテージジーンズの価格は最高潮に達した。日常使いできるレプリカジーンズが再評価されることにもつながった。
欧米トップメゾンは、日本で洗い加工を施した高級ジーンズを販売するようになった。ジーンズ愛好家が集まって作られる産地の洗い加工技術は元々高い評価を得ていた。円安と、長く続いたデフレの影響で抑えられた人件費によって、他国と比較しても工賃は割安感があり、日本製に対するハードルが下がった。
企業価値が高まった国内のデニムとジーンズ関連企業に対する買収劇も起きた。2019年のキーストーン・パートナースによるジョンブル(倉敷市)買収にはじまり、22年の刈田・アンド・カンパニーによるジャパンブルー買収、25年の仏高級ブランドLVMHモエヘネシー・ルイヴィトン系ファンドによるキャピタル(同)買収などで、今後も続く可能性がある。
25年、デニムとジーンズの未来を変えるニュースが飛び込んできた。それは、バイオインディゴの開発だ。化石燃料を原料とした合成インディゴから、糖を微生物発酵させて作る製造方法に変更する、よりサステイナブルなインディゴとして注目を集めている。