香港日本人商工会議所/「香港の製造業の歴史とこれから」/本紙・上海支局長が講演

2025年10月07日 (火曜日)

 香港日本人商工会議所繊維・化学品部会が8月21日に開いた部会で、本紙の岩下祐一・上海支局長が「香港の製造業の歴史とこれから」と題して講演した。その内容をまとめた。

 香港が転換期を迎える中、多くの日本企業が香港拠点をどう活用すればよいか悩んでいます。きょうは、香港の製造業の歴史や企業の具体的な取り組みを見ながら、改めて「香港の価値」について考えてみたいと思います。

 これからお話しする内容は、元香港大学の先生で東京理科大学経営学部の中野嘉子教授や、香港の現地企業の取材、日本と香港、中国本土の文献が基になっています。

〈上海の繊維工場が移転〉

 香港は19世紀から中継貿易港として発展しました。第一次アヘン戦争(1839~42年)で清朝が敗北し、香港島を大英帝国に割譲します。香港が植民地になり、大英帝国との中継貿易港になったことで造船業が栄えました。

 41年12月から日本の敗戦までの3年8カ月、日本軍が香港を占領しました。その間、香港人の一部は、本土に避難しました。しかし40年代末には、逆に中国本土での内戦激化と政権交代に伴い、上海やその周辺の繊維工場が香港に移転を始めます。

 上海紗廠や香港紡織、半島針織、南豊紡織、中国染廠、大元紗廠、南海紗廠などがそうした工場です。綿紡績工場の工員数は47年にわずか100人だったのが、ピークの70年には2万人に増えています。

〈60年代に世界の工場へ〉

 60年代に「メード・イン・ホンコン」時代が幕を開けます。本土からの工場進出に加え、米国の共産主義封じ込め策が、メード・イン・ホンコンの発展を支えました。朝鮮戦争時、国連は中国との貿易を禁止。中国も66年に文革が始まり、内向きになりました。

 中国と世界を結ぶ中継貿易港だった香港にとっては大打撃ですが、これに素早く対応し、“世界の工場”へと歩みだします。

 中国共産党政権が49年に成立して以降、本土から香港への移民が増え続けました。47年に180万人だった香港の人口は、63年には2倍の360万人になります。労働人口は拡大を続け、メード・イン・ホンコンを支える基礎になります。

 当時、製造業にとって香港は次の四つが魅力でした。

①関税フリーの自由貿易港

②イギリス植民地として法と秩序が整う

③安い労働力

④貿易中継点だったことからインフラや通信設備が整う

 製造業は発展を続け、70年には香港人の2人に1人が製造業に従事していました。最も多かったのは縫製工場です。

 これに伴い、労働者の1人当たりの収入は、65年から71年までに倍増します。当時香港は、繊維・アパレル生産で豊かになりました。

〈不動産デベロッパーへ転身〉

 香港の不動産デベロッパーの多くは、50~70年代に繊維ビジネスで富を築き、70年代に地価の高騰とともにデベロッパーにシフトしました。

 繊維ビジネスのブームは、ビルの中でアパレルなどを生産する「工業ビル」の需要を生み出しました。後のデベロッパーは、自ら繊維工場を経営する傍ら、他の企業に賃貸するための工業ビルを建設・賃貸することでも利益を上げました。

 70年代に、多くの繊維企業がデベロッパーに転身しました。南豊集団(ナンフォン)の創業者、陳廷●氏は「綿糸大王」と呼ばれた人物です。繊維業が祖業のデベロッパーの代表例です。

 新鴻基地産(サンフンカイ・プロパティーズ)の郭徳勝氏は52年、YKKのファスナーの香港・マカオの総代理店契約を結びました。香港の縫製工場が世界中にアパレルを輸出する中、ファスナーを独占的に販売し、莫大な利益を上げたそうです。

 鷹君集団(グレート・イーグル)は生地の卸売・貿易、恒隆地産(ハンルン・プロパティーズ)は繊維品などの雑貨貿易が祖業です。

 ちなみに香港一の大富豪、李嘉誠(リー・カーシン)氏の最初の事業は、「ホンコンフラワー」でした。

〈中国・アジアへの足掛かり〉

 80年代には、香港製造業は中国への生産シフトとデベロッパーへの転身を進めます。

 79年から中国で改革・開放政策が始まり、二つの中国シフトが加速します。一つは生産シフトです。香港で人件費が上がる中、安価な大陸へ生産をシフトさせます。

 もう一つは販売のシフトです。香港人が本土への里帰りの際に持参する“お土産家電”がブームになります。ナショナルの炊飯器と冷蔵庫が、そのパイオニアになりました。これについてご興味があれば、中野教授の著作「同じ釜の飯」(平凡社)をお読みください。

 90~2000年代は、中国への“ゲートウエー”として存在感を高めます。また欧米ブランドが、バイイングオフィスを設立します。さらに欧米輸出のクオータ(割当)制を背景に、東南アジアへの生産シフトも同時進行します。

〈オフショア生産を拡大〉

 06年1月1日、「香港と中国本土との経済・貿易緊密化協定」(CEPA)が施行されます。これを機に、中国本土で生産するアパレルの再輸出地としてさらに発展します。

 しかし、08年ごろから本土での人件費上昇や環境保護政策の厳格化が進み、本土から東南アジアへの縫製シフトが本格化します。欧米向け繊維品の中継貿易港としての香港の衰退が進みます。

 10年代に香港の製品OEM企業は、ASEAN地域で生産能力を拡大します。これに伴い、各社は現在も香港をアジア事業の統括管理として活用しています。

〈東レの香港活用事例〉

 香港は現在、本土との一体化で金融、高度人材、研究開発を強みとする世界のイノベーションセンターを目指しています。最後に、ダイナミックに変わる香港の活用事例として、東レの取り組みを紹介します。

 一つ目は、研究開発(R&D)拠点としての活用です。17年に「東レ創新〈香港〉研発中心」を設立しました。香港の大学や研究機関と連携し、サステイナビリティーや先端材料といった分野での研究開発を実施しています。

 二つ目は、イノベーションです。東レ香港の自社デザイナーと珠海の自社工場(THKアパレル)を組み合わせ、数年前から樹脂接着縫製「ACROFUSE」(アクロフューズ)ブランドを展開しています。香港発の新しい縫製技術として、欧米スポーツブランドに売り込み中です。

 最後が高度人材の活用です。東レ香港は香港の優秀なIT人材を重用しています。地元の著名大学から優秀な人材をインターンシップで採用し、ベトナム生産を担当するITチームで活用しています。生成AI(人工知能)による社内業務の効率化などにも挑戦しています。

東レの香港活用の歴史

【1950年代】

1956年、香港の繊維商社、南洋染廠(トライロン)に資本参加。同社は東レの合繊素材を東南アジア全域に販売する総代理店のような役割だった

【1960年代】

香港を「代理店・ゲートウエー」に。直接東南アジアに乗り込むのではなく、アジアの繊維ビジネスの中心地であった香港に強固な拠点を構築した

【1970年代】

香港企業と共同で生産拠点を東南アジアに設立し、現地生産を本格化。単独ではなく、香港の大手メーカーと共同で進出した

1973年、東レはトライロンと東麗工業〈香港〉を設立し、香港証券取引所に上場。地域統括会社として東南アジア投資を加速する

【1980年代】

東南アジアの生産拠点は定着。中国の改革・開放で香港パートナーとの関係は新たな局面へ。香港パートナーが人件費の安い中国本土(特に広東省)へと工場を移転、そうした工場での協業が活発化

【1990~2000年代】

ニット製衣類の自社縫製会社、THKアパレル(珠海)と、香港丸編み地大手のパシフィック・テキスタイルズの協業を進める

パシフィック・テキスタイルズとは、その後「ユニクロ」の機能性インナー「ヒートテック」となる素材を共同開発

【2010年~2020年】

ベトナムや珠海などでの生産管理。THKアパレルの生産高度化など

【2021年~現在】

現地高度人材や生成AIの積極活用とイノベーションへの挑戦

(●はうまへんに華)